『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』
⑦
峠杣一日・著
「自分」と言ふのも文字通り「はじめのわかれ」(始めにして結びの現れ)、「一(いち)と八百万(やほよろづ)」で常の親子(とはのおやこ)を示してゐる。
父×母=子
未来×過去=現在
故郷×故郷=不二
私達の命には父なる故郷(ふるさと)と母なる故郷とが宿って共に生きてをり、此の事を不二(ふに(ふじ・富士))と呼ぶ。
三つ子の魂たる一(いち)は、相対(二)ではなく絶対(三)なのである。
朝(あした)に夕べ(ゆふべ)に故郷に思ひを馳(は)せる事は、神仏に手を合はせる事にも等しい。
言ひ換へれば、
『三つ子の魂の一(いち)の感覚や感情に思ひを致(いた)す』
事が大切なのである。
手短(てみじか)な例として、日和(ひより)、青空、月明かり、星空、そよ風、雲海、木洩れ日、春雨ぢゃ…風光明媚(ふうくわうめいび)な心地好い自然を思ひ浮かべて浸(ひた)る等の一時(ひとゝき)も、三つ子の魂の一(いち)を育む働きとなるだらう。
さて、三途の川(さんづのかは)は賽の河原(さいのかはら)の骨肉一家(こつにくいっか)。
彼等の持つ様々な眼鏡(めがね)で以(もっ)て覗(のぞ)けば、人間にこびり付いた迷ひの衣(ころも)を忽(たちま)ちの内に取り除(のぞ)くのである。
三途の川に流された迷ひの衣は、何時(いつ)しか迷ひごと消え去って行く。
何となれば、三途の川とは月虹の水(げっこうのみづ)の大河なのである。
つゞく。