『あれかし大明神』(扨抑物語 第二幕 41) | 『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

島根県松江市東出雲町、あれかし山の峠杣一日です。
島根半島(島根島)は勾玉宝船、山陰(東方鳥取瑠璃光藥師少彦名神、西方島根極樂阿弥陀大国主神)は瑤大蛇(たまをろち)。常の理(とはのことわり)あれかし大明神鎮まる意宇の古都から常の親子(085)の物語を書いてゐます。


あれかし大明神
~扨抑物語 第二幕
峠杣一日・著


四十一、

『人は、自然と一体である事、自然其の物の現れである事を忘れて居(を)るんぢゃらうの』

斎角(ゆづぬ)の笛に誘はれ、酒壺(さかつぼ)提(さ)げてやって来たのは、伊我山(いがやま)の日根居士(ひのねこじ)。

日出居士(ひのでこじ)に似た山伏(やまぶし)であるが、其の長い髪と髭(ひげ)は、黒々(くろゞゝ)と蓄(たくは)へられてゐた。

然(しか)り。

自然とは、文字通り自(はじめ)の然(とほり)、常の理(とはのことわり)の現れである。

また、自分とは、自(はじめ)の分かれ(子)なので、人も当然、常の理(とはのことわり)を現して行く存在である。

人としての其れは、精神に芽生える文化なり。

地上の楽園、神の国等と呼ぶものも、種と稔(みの)りの親子の姿、常の理(とはのことわり)に根差す現し世(うつしよ)を示してゐる。

人は未(いま)だ、成長の途上にあるのだ。

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