秋薔薇 | ryo's happy days

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思い切り人生を楽しむこと。これが全ての私。

今日、長年通院している病院を出て、帰りは久しぶりにバスに乗ろうと
思い立ち、通い慣れた道をとぼとぼと歩いていたのだろう。たぶん考え事を
していたのか迷子になった。都会の真ん中で迷子...。足も痛むしとにかくタクシーを止めて帰宅する。タクシーから窓外を見れば全く反対に歩いていたようだ。いかんいかん、心ここにあらず..。気持ちをしっかりとしなければ。
 たおやかに我を慰む秋薔薇
連載小説「医と筆と」7
 そよが行方をくらましたのは、赤児が産まれて三日目のことである。
 夜更けて春一番が荒れ狂い雷鳴は闇を唸り垂れ込めた雲の隙間からときおり強い光を放っていた。どこの家も心張り棒を戸に立て、路地は人が通る気配もない、ときおり野良犬の遠吠えが聞こえてくる。家々が布団を頭まで被って早寝を決め込んでいるそんな夜も明けぬうち、いつまでも泣き止まぬ赤児の様子を見にきた吉乃は、隣りに寝ているはずのそよがいないことに気付いたのである。始めは厠に立ったのかと思ったが、着ていた浴衣が脱ぎ捨てられており大騒ぎになった。
「堀川に身投げでもするのでは」
 不吉な胸騒ぎにすぐ近辺を与吉に探させたが、やがて診察部屋の抽き出しからあるだけの小銭が消えていることが分ったのだ。それに昨夜、瘧(おこり)で担ぎ込まれた飯屋のおえいさんの枕元に、たたんでおいた着物が失せている。
「なに、全部合わせても二十文にも足らぬばら銭だ。金を盗む限りはそよさんは生きる気持ちがあるのです、身投げはせぬでしょう。乳が張れば赤児のことを思い出して帰ってくるやもしれぬ。町方に届け出ては大事になってしまう。少し待ってみましょう」
 金を盗んだとあって、すぐさま自身番のもとに走る勢いの与吉は順庵の言葉に納得が行かぬながら、しぶしぶ下駄を脱いだ。腹を空かせた赤児は抱いているさよの胸元に顔を向けては乳を探して泣きやもうとはしない。
「そよさんの帰りは待てませんよ。何とかこの子に乳をやらねば泣きつかれて死んでしまいます」
 さよの言葉に、綿入れにくるんだ赤児をおうめに抱かせ、吉乃と二人、夜明け前には家を出ると、掘川端を南に二丁も歩いた先のきよみ長屋まで急いだ。由蔵のところに産まれた鶴吉は確か百日の祝いが済んだばかりだ。貰い乳を頼むことにしたのだ。
 明け方にも関わらず由蔵も嫁の千代も嫌な顔一つしなかった。事情を話すと二つ返事だった。
「助かるまいと噂していたんですがね、無事に産まれたと聞いてうちのやつと、さすが吉乃先生だ、と大喜びしていたんでさぁ。何てこった、そんなこととは聞いてびっくりですぜ、なあに、お安い御用ですよ、うちは銭はないが乳だけは有り余って絞って棄てるほどでさぁ」
 由蔵の女房、千代とは千代が堀川端のお茶屋で働いていた頃、何度となく田舎の母親へ出す手紙を代筆したことがある仲だ。愛嬌のある大きな目でおうめが抱いた赤児を見るやすぐに腕を差し出した。
「あれまぁ、こんなに口を動かして乳を欲しがってるじゃあありませんか、こっちは乳が張って苦しくて堪らないんです。任せてください」
 赤児を抱き胸を広げると、もうぽとぽとと乳首から乳が垂れている。赤児はその乳首に吸い付いて懸命に吸い始めた。
「何ならこの子、おっかさんが帰るまで、うちで預かりやしょうか」
「いえ、そこまでご迷惑は」
 辞退する吉乃の前に、ここぞとばかりにおうめがしゃしゃりでた。
「それでは、暫くお願いいたします。襁褓(おしめ)や産着などすぐに持ってまいりますんで」
「なあに、赤ん坊は乳さえあれば何の雑作もかかりませんや」

 吉乃は今更ながらきよみ長屋で暮らした頃、相店のみんなの情けに助けられた日々を思い出して深々と頭を下げた。
「いけませんぜ、頭なんぞお下げになっちゃぁ、困ったときは相見たがい、こちとらだって随分と診療所には助けてもらっておりますよ。薬礼だっていつも待ってもらうばかりで。で、赤ん坊の名前は」
「それが、名も付けぬままなのです」
「そりゃ、かわいそうだ。名無しの権兵衛じゃ話にならねぇ。なら、うちが鶴吉なんでこの子は亀吉ってことでどうです。」
 千代が手放しで喜ぶ。
「そりゃいい、まるでうちに福が舞い込んだようなもんじゃないか。鶴と亀でいいことづくめだよ」
 向かえの腰高障子が開くと見慣れた顔が覗いた。
「あれま、賑やかな声がすると思ったら、吉乃ちゃんじゃないかい、こんなに早くどうしたのさ」
 おみつだった。おみつは吉乃が十の頃、父に連れられ始めてきよみ長屋に来たときから、今では実の母のように甘えている。
 いつの間に止んだのだろう、風は止み浅い春の陽が薄靄を消し去り始めていた。