気配 | ryo's happy days

ryo's happy days

思い切り人生を楽しむこと。これが全ての私。

長雨はあちこちに被害を齎せたけど、そのせいか少し涼しくなった。真夏のかっとする暑さが消えて涼風を感じたとき、ふと秋の気配を感じる。また、暑さはぶり返すかも知れないけれど何卒このまま、秋に移行して欲しい。
コロナが不気味。ニュースは連日そのことばかり..。気が滅入る。
  抜け殻の転がりてをり秋立ちて
連載小説「みつさんお手をどうぞ」35
 あれほどの酷暑は彼岸が過ぎると憑き物が落ちたように涼しくなって、つるばみ荘に通う舗道には銀杏の実が落ち始めた。浩志のために掛け布団を干すようにとみつさんが言ったことは正しかった。俺は秋晴れの日曜日、みつさんの言葉に従って、出窓いっぱいに掛け布団を干した。日なたの匂いは懐かしい母の匂いがした。このところ、みつさんは元気で俺が行くのを待っている。あいかわらず、とんちんかんなことは言うけれど、それさえなければ、まるで普通の元気なお年寄りだ。このままの状態が続けば、強制退院にもなりかねないところだが、木元さんが引き取ればまた、発狂したように暴れることが分かってるので、検査入院という形を取って、来週から椎木病院に移されることになっていた。
 だが、そんなとき、とんでもない事件が起きてしまった。
 このところの好天続きで、つるばみ荘の玄関前の金木犀がそこら中にマンカンショクの秋をふりまいているような日、俺がいつものように病室に入ろうとしたとき、大声でわめく声にド肝を抜かれた。何事が起こったのか! 部屋に飛び込んで驚いた。何とみつさんがベッドに立ち上がっているではないか。腰を折ってからいうもの、完治しているにも拘らず、痛がって全く歩こうともしなかったのに、いったい、何があったというのだ。
「みつさん! どうした!」
 俺の声にみつさんが鋭く反応して、八尋さんを叱りとばした。
「ほら! あんたがグズグズしとるから、もう社長さんが来られてしもうたやないか! こんな料理じゃ、とてもお出しできませんよ。はよ、厨房まで行って、料理の手配をしなさい!」
 八尋さんは突然、身に降ってきた、謂われのない命令に、訳が分からずヒステリーを起こしそうになっている。
「このオタンコナス! あんた、厨房が分からんの、ほら、あそこで白い服を来た板さんがいっぱいいるとこたいね」
 みつさんの指が、バシッとナースステーションを指差した。
 俺は慌てて、かけよるとベッドから今にも落ちそうなみつさんの両足を抱えた。
「みつさん! 危ない! じっとして!」
 その瞬間、逆上した八尋さんが投げた朝食の味噌汁がとなりの斉藤さんを直撃してしまった。異変に気付いた看護士さんやヘルパーさんが駆けつけて来る。
「みつさん!」
 みつさんの身体はまるで筋金が入ったように堅く、俺の呼ぶ声は全く耳に入ってないようだ。思わず大声で叫んだ。
「仲居頭!! お客様はもうお帰りになりました!」
 その途端、すとんとみつさんの力が抜けた。へなへなと崩れ落ちるみつさんの身体を何とか受け止め、腕に抱え込んだ頭を枕に乗せると、みつさんは何事もなかったように身体を横たえた。
 それから先、逆上した八尋さんは鎮静剤を投与され、味噌汁の直撃を受けて泣き出した斉藤さんは、介護士さんになだめすかされて、シャワーを浴びに行き、安西さんだけは相変わらずカーテンが引かれていたので難をのがれたのだった。ベッドの上で仁王立ちになり采配をふっていたみつさんはきびきびとした態度で、まるで現役時代に返ったようにも受け取れた。いったい今のは何だったんだろう。少し鼾を掻いて眠るみつさんの顔は安らかで、何ごともないまるで平和そのものだった。