ジョブズのことば
多くの人の、スティーブ・ジョブズの死に対する、まるで身内が死んだかのようなエモーショナルな反応、今週の銀座のアップルストアの前に投げられた花束の山にびっくりした。
言葉は悪いが、ちょっと、宗教カルトのようである。
死ぬまでの10年間に、スティーブ・ジョブズは、単に成功したIT企業家ではなく、宗教的カリスマに近い存在に昇りつめていった。
2005年の、あの'Stay hungry, Stay foolish'で有名な、スタンフォード大学の卒業スピーチ
の内容を改めて見てみると、彼がいかに自ら体験を万人のためのメッセージに転換していく能力に長けていたかが分かる。
それは、お題目や美辞麗句で満ちた、どこかの国のお偉いさんたちの空疎なスピーチの正反対。ほとんどジョークもなしに、実に実直、朴訥に自分自身の内面を言葉にしている。
アップルという会社の経営やiPhoneやiPadの商品開発の過程には詳しくないが、多分、彼は、このスピーチのように自分自身の本質を自分の商品に反映させることに長けていたのだと想像する。
彼はスタンフォード大学の卒業生に3つのメッセージを送っている。
①人生に無駄はない
②好きなことを見つけろ
③死を忘れるな
3つのメッセージは連関を持っている。ジョブズ自身の体験と心境、学生に与えたい教訓が一体となって最後の'ハングリーであれ、愚かであれ'につながっていく。
①人生に無駄はない、②好きなことを見つけろ、は、それ自体、斬新なメッセージではない。実際、若者にこうしたメッセージを送る人は多いだろう。
そうした二つのメッセージを建前論に終わらせず、際立たせているのは、なんといっても、三番目の「死」についての語りである。
(いずれ)死んでゆくという事を心にとめおく事は、何かを失うかも知れないと考える思考の罠を回避するための、私の知りうる最良の策だ。
結局、このスピーチの6年後、56歳の若さで死んだという事実によって、ジョブズのメッセージの重みはさらに増す。
ちょっと、スピーチを見ていこう(内容はコクリコの独断と偏見による要約)。
①人生に無駄はない
(ジョブズの体験)ジョブズは大学を1年でドロップアウトして、単なる聴講生になり、それ以降、好きな科目の授業に出るようになった。当時在籍していたリード大学は西洋書道(カリグラフィ)が有名で、たまたま、それを受講した。その結果、フォントの美しさや歴史に魅了された。当時は、それが自分にとって実用的な意味があるとは思わなかった。だが、10年後にマックPCを開発したときに、その知識が役にたった。カリグラフィーの素養のあったジョブズはマックPC上で美しいフォントがいくつも選べるようにし、それが後に世界のPCのデファクト・スタンダードになった。
(教訓)渦中にいるときには有用性がないと思えたことも、後になってみると役に立つことがある。人生に無駄ではない。いつか、いろいろなことが有機的につながってくるときがくる。自分にはそうした運命のようなものがあると信じなければならない。
②好きなことを見つけろ
(ジョブズの体験)ジョブズは20歳で創業し、大企業に育て上げたアップルを30歳で解雇された。一時はシリコン・バレーを離れることを考えたが、自分の仕事が好きだから、IT業界での仕事を続けた。解雇後の時期は、結果的に人生で一番、実り豊かな時期となり、解雇されて良かったと思うようになった。その後、結局、アップルに返り咲くことになった。
(教訓)人生には挫折もあるが、諦めるな。自分を信じろ。好きなことをやり続けろ。偉大な仕事をする唯一の方法は、自分が偉大だと思う仕事をすることだ。それが見つかっていないなら、見つけろ。見つけるまで諦めるな。
③死を忘れるな
(ジョブズの体験)17歳のとき「毎朝、それが自分の最後の一日だと思って生きなさい。いつか、きっと本当に最後の一日が来るのだから」という格言を読んで、以来、毎朝、これが最後の日なら、これからしようとすることをするだろうか、と自問するようになった。1年前に癌で余命数ヶ月と宣告され、初めて死を現実に感じるようになった(その後、手術で回復)。
(教訓)誰もが死を免れることはできない。死によって、古いものが一掃され、新しいものが芽生える。今、新しいものも、必ず古くなり、若者は年老いる。だから、自分の時間を無駄にしてはいけない。他人の人生を生きてはならない。本質的なことをせよ。内面の声に耳を傾けよ。
①と②のメッセージは、革新的な製品を世に送り出した天才起業家であるジョブズだから言えるが、フツーの人の人生には必ずしも当てはまらないようにも思う。
無駄だ思ったことが、実は無駄ではなかった、挫折だと思ったことが、実はチャンスだった、というようことは、フツーの人生にもないこともない。
左遷先の職場で、将来の伴侶と知り合ったり、ボランティアをしていたことが、仕事につながったり。。。。
でも、現実的に考えて、「カリグラフィー」を習ったことを、新製品開発に生かせたのは、ジョブズがアップル創業者だっただ。普通の人の無数の学習体験は、単なる興味、趣味に終り、なんらかの創造には結びつかないまま、終わってしまう。
また、ジョブズは、「好き」だからこそ、自らは偉大な達成ができた、とにかく、「好きなこと」を見つけろ、といっている。
それは、簡単なようで簡単でない。
ロックが寝ても覚めても好きで、ロックミュージシャンを目指してバイトをしながら中年になった多くの人々。
好きなことに経済価値がないとき、好きだけど才能がないときは、どうしたらいいのか。
父、母、伯父伯母、友人たち。人生を半分以上生きてきた周りにいる人々を見回せば、「好き」を仕事にできた人が、どれだけいるか。
こうして、①、②のメッセージがそれ自体としては眉唾ななかで、ジョブズの③のメッセージーーいつか死ぬのだから、時間を無駄にするな!だけは、ずしんと腑に落ちる。
死は必ず、訪れる。
お金持ちにも、貧乏人にも、好きなことを仕事にしている人も、そうでない人も。若い人にも、それほど若くない人にも。
「運命を信じる」「好きなことをやる」など、いろいろ言っても、所詮は、人間は100年足らずのあいだに全ての持ち物をこの世に置いて、あの世に旅立つ。
死ねば、好きなことも、この世の達成も、全て関係なくなってしまう。生きてナンボ、なのである。
ジョブズは、40代で癌になったから、「死」の認識を他の人より強く持ち、人間の限界にも気づいていた。
だからこそ、逆説的に「好きなことを探せ!」「人生に無駄はないと信じるのだ!」と言ったのだ。
大成功した天才起業家だったから、こうしたメッセージを発したのではない。
大成功した天才起業家なのに、癌になって死に直面し、人生の儚さを知ったからこそ言ったのだ。
つまり、「若者は好きなことを仕事にしようよ~」「無駄はないって信じようよ~」「僕はそういう風にしたから成功したよ~」と甘ったるく建前論や根性論を言っているのではない。
「いつか、終わるときが来る。もしかしたら生きているうちに何もできないかもしれない。だからベストを尽くせ。くだらないことを考える時間はないのだ。ベストを尽くすためには、まず、好きなことを見つけないといけない。好きなことでなければ、情熱を傾けらられず、ベストを尽くせないからだ。そして、何をやっていても、『無駄だ』と思わないで、『運命の力で無駄にはしないで見せる』という気迫と信念を持ちなさい。そうしないと、無駄に終わってしまうよ」
と言っているのだ。
「死」と対峙していたジョブズの言葉は、とても実存主義的で、その姿は「賢者の老人」のようである。
その言葉は、若者だけじゃなく、中高年にも響く。
アップルや、マックが嫌いな方も、若くない方も、ぜひ、騙されたと思って、一度、彼のスピーチを聞いてみてください。
皇居ラン
10キロくらい、かな。
皇居の周りを走ったのは、内幸町の会社で働いていたとき以来だ。
実に3年ぶり。
毎日、3キロのリハビリランを一ヶ月ほどやって、ようやくこれだけ走れるようになった。
皇居は美しい。
大手町から竹橋にかけての登り坂、永田町から日比谷にかけての下り坂。
緑に光る水面と、白鳥、鷺。
白壁と瓦屋根と森。
懐かしかった。
3年前から5キロ太ってしまった し、すっかり鈍っているので、走っているといっても他人から見たら歩いているようなもの。
沢山のランナーに抜かれて、一人も追い抜くことはできない。
早く走りたい気持ちと、うまくコントロールできない身体との綱引きだ。
無理しても、自分の能力を超えて早く走りすぎたら、途中で止まってしまうし。
今の身体の限界という現実と、ガチンコで向き合うことになる。
限界を感じながら、限界を超えようと頑張る。あくまで、自分のペースで。
走っているとき、私が頼れるのは、自分だけ。
これが、ランニングの醍醐味だ。
飛行機に乗って、沢山、地理移動して、沢山、いろいろなものを見て、沢山の人と知り合った。
何もしないまま、何でもできるという幻想ばかりが先走りしたこの3年間。
肉体のためにも、精神のためにも、もっと走って、自分との冷静な対話を続けるべきだったな、とふと思う。
幸い、皇居はリバーシティから近い。
走るのにも絶好の季節。
徐々にまた、二周、三周と走れる距離を伸ばしていこう。日々、冷静に、出来ることを一生懸命頑張っていた、あの頃の自分を取り戻そう。
皇居が、外国のどんな宮殿とも異なっているのは、緑。中国でも、韓国でも、東南アジアでもヨーロッパでも、宮殿にこんな緑はない。森こそが、日本のアイデンティティだ。
キャリアと結婚
大学二年生のとき、「文章表現」を行う一般教養ゼミに入っていていた。毎週、決められた課題に沿って作文し、それを皆で論評する、というゼミだった。
そこで、「女性の社会進出」というテーマが与えられた。
他のテーマはほとんど、忘れてしまったのに、このテーマだけは良く覚えている。
当時は雇用機会均等法施行直後であり、女性総合職が始まった時代だった。
雅子様が外交官として活躍されていた頃である。
当然、女子大生にとってホットなテーマだった。
ところが、私はまるでうまく書けなくて、逃げ出したい気持ちだった。
どうして、うまく書けなかったかというと、当時の私の頭の中には、次のようなとても頑固な二項対立があったからだ。
A.社会進出する女性:総合職、牛乳瓶の底メガネ、勉強ばかりするブス、男性に愛されない、孤独、無味乾燥、哲学、ネクラ、ダサイ
B.家庭に入る女性:一般職、体育会の女子マネージャー、料理好き、子供好き、専業主婦、男性に愛される、「私には難しいことは分からない」、ネアカ
Aになりたくないのに、「お勉強」をする大学に入ってしまった私は矛盾を抱えていた。
競争したり、世の中のことを知ったり、お金を稼いで自立したい、とは、思っていた。でも、その代償にお嫁にいけず、男性に愛されないとしたら、それは悲しすぎる、と思った。
本当は、Bの道こそが幸福だと思った。だが、同時に、自分で自分の能力開発をせず、男性に運命を全てゆだねるような「フワフワ」した怠惰な生き方は、気持ち悪い、自分のキャラじゃない、という屈折した気持ちがあった。
私はBになりたいのに、なれない、と感じていた。
だから、「お勉強する」大学に入った。
自信と不安のあいだを揺れ動き、どっちつかず、宙ぶらりんの葛藤状態で、19歳の私の心はコンプレックスで一杯だった。理路整然と「女性の社会進出=自分はどのようになりたいか」を語れるはずはなかった。
世界を知ることが出来る新聞記者や外交官の仕事にあこがれた。
でも、それはAの道だった。そうした職場では、20代は自分が選んだわけではない地方勤務や外国勤務が続く。そんなことをしたら男性と知り合う機会を失い、完全なAになってしまう。
Bの道、商社や銀行の一般職になり、20代のうちに花道結婚。。。という道だって当然あったはずだ。でも、「お勉強する」大学に入ってしまった自分にはもはや、そんなことは許されない、「可愛くない」私にはBの道を選ぶ権利はないのだ、と思った。
大学卒業後もそうした葛藤は続き、私は、ひたすら、AもBも選ばないで生きられる道ばかり探して生きてきた。。。ともいえる。
そのうち、世の中は変わり、「A」と「B」の対立軸は崩れていった。
リアルな女性の生き方もさまざまだった。高校の友人たちを見ても、総合職の女性があっさり辞めて専業主婦になったり、腰掛けだったはずの一般職女性がキャリアウーマンになったり、子供を産んで起業する人がいたり、ダンサーになる人あり、学者になる人あり。離婚したり、再婚したり。
大学生の私の頭のなかの二項対立は、
A=キャリア優先の生き方、
B=結婚優先の生き方、
だったといえる。
Aだから不幸、Bだから幸せ、と考えた大学生の私は、今思うと、なんてナイーブだったか、と思う。
それは、雅子様のその後の人生を見ても、分かる。。。。
もちろん、Aだから幸せ、Bだから不幸、ということでもない。
AもBもあるから、幸せ、でもなく、
AもBもないから不幸、でもない。
AとBは、対立したものではなく、相容れないものでもなくなった。
だから、私は結局、Aを選んでもBを選んでも、AでもBでもない場所に行き着いていたはずだ。
それなのに、無理やりAとBを二つに分けて、どちらかにもうまくはまらない自分にクヨクヨ悩んでいた19歳の私って、馬鹿みたいだったな、と思う。
同時に、女性の生き方や日本社会の構造が大きく変わりつつあった1980年代に10代を過ごした私が、結婚とキャリアを二つに分けて悩んだのは、無理ないことだった、歴史的必然だったかもしれない、とも思う。
母と同じ生き方をするのか、違う生き方をするのか。
母みたいになれるのか、なれないのか。
大学時代の私の悩みの根源は、実はそこにあった。
「母みたいな生き方」というのは、母の生きてきた戦後高度成長期の東京のサラリーマン家庭の専業主婦的生き方のことだ。
そうした生き方が、だんだん崩れていく。。。という予感は1980年代にはあった。
だから、母は、私に「花嫁修業しないでいいから勉強しろ」と言った。
それで、私は、自分はBにはなれない、と思ったのだ。
当時の私は、社会の問題と自分の問題を分けられず、全てを自分の「こころ」の問題として捉えていた。だから、書けなかった。自分が恥ずかしくて、書けなかった。
だが、それは、どちらかというと社会の問題だったのだ。
あるいはやっと今、「女性の社会進出」について書きはじめられるようになったかもしれない。