ライオンシティからリバーシティへ -19ページ目

太った

なんと、サラリーマンだったときと比べて、5キロも太ってしまった!

身長は変わらないから、およそ、一割くらいも横に広がったことになるだろうか。

そのことに気が付いたのは、今から2週間前。

一年以上、体重計に乗るのをやめていたのだ。

体重計に乗らなくても、自然に生活して、自然に運動して、自然に食べていれば、太らない、と思っていた。

仕事を辞めたあとも、精神的には割と忙しく、出歩いていたから、運動不足という感じはなかった。

基礎代謝はどんどん落ちているのに、気付かずにお酒を飲んだり、お菓子を食べたり、外食したりしていたら、こんなことになってしまった。

で、ちょうど、涼しくなってきたこともあり、毎朝3キロのジョギングを再開した。

(脂肪1キロを燃やすのは、7000キロカロリーの消費が必要。二ヶ月、毎日走ると11000キロカロリーの消費になる。これに加えて、毎日の食事を150キロカロリー分ほど少なめにすれば、二ヶ月で3キロ、痩せられる計算。。。
参考:http://sports.geosites.jp/shtaqg/)

半年くらいで、なんとか、前の体重に戻したいと思っている。

仕事を辞めて3年。私の信条は、「自然に」「自分の気持ちを大切に」「自分の好きなことを」だった。

サラリーマンだった前半生。ひたすらお給料を貰うため、「回りに合わせて」「与えられた仕事の必要性に合わせて」「いやな人ともつきあって」「理性と計算のもとに」生きてきた反動、といえる。

理性よりも感性。

自然に、好きなことをやっていれば、いつか、それが仕事になる。

自然に振舞っていたら、良い出会いがある。

食べたいものを食べても、ストレスがなければスリムでいられる。

お金は使えば、後から戻ってくる。

こうしたポップ・スピリチュアルな信念のもと、私はどんどんリラックスしていった。

案の定、体重は5キロ増。

好きなことは、どんどん拡散していくばかりで、なかなか、仕事にはつながらない。

摂取カロリーが消費カロリーを上回る状態が続けば、確実に体重は増える。

中年になれば基礎代謝が落ちるから、食べる量を減らすか日常的な運動をしなければ、太るのが当たり前。

好きなことを仕事にするには、他の人より、卓越している必要がある。卓越するには長く困難な修練が必要。誰かに私の能力を買おう、私の商品を買おう、と思ってもらう必要がある。

そんな、当たり前すぎる、ずっと前から知っていた身体の現実、社会の現実を、あえて、私は見ないふりをしていたような気がする。

見ないで、全能の幻想に浸っていた気がする。

目覚めの秋、である。

ライオンシティからリバーシティへ

口あたりの良いポップ・スピリチュアリティの本が並ぶ本屋の書棚。どの本も「クヨクヨしないで。好きなことをやれ!リラックスして!」と言っている。読んだ直後は、「何でもできる!」と力が湧いて来る。でも、決して、持続的な実践にはつながらない。だから、こういう本を買ってはいけない。

芸術起業論

芸術起業論/村上 隆
¥1,680
Amazon.co.jp

芸術闘争論/村上 隆
¥1,890
Amazon.co.jp
私は現代アートにとんと疎い。村上隆 やその作品のことも、他の多くの日本人同様、ルイビトンとのコラボや、ヴェルサイユ宮殿での個展のあたりから、メディアで知った口である。

彼の作品も、正直、好きか、と聞かれたら、「良く分からない、ちょっと私の趣味じゃない」と答えるしかない。

だから、こうした本も本来なら、守備範囲ではなかったはずなのだが。。。。

ひょんなことから読んだら、思いがけず、大ヒットだった。

世の中には、①読みやすいが内容が薄く、すぐ忘れてしまう本、と、②読みにくいが、内容が濃く、何度でも読み返したい本、③読みにくく、内容が薄い本、④読みやすく、しかも内容が濃い本、がある。

最近は、②の本は、なかなか出版されなくなり、①ばかりが多い。

が、この本は①でも、②でもなく、非常に稀な、④だった。

村上さんは、自らが欧米のアートシーンで成功した理由、他の日本人アーティストがこれまで成功しなかった理由を分析、説明している。

村上さんは、それをとても分かりやすい言葉でまとめている。

彼は、自分の成功の鍵は、欧米現代アートの「文脈(コンテクスト)=決まりごと、ルール、価値観、歴史」を十分に理解し、その枠組みの中で、日本のアートを捉えなおし、作り直し、マーケティングしたことにある、という意味のことを言っている。

億万長者のスノッブな遊び資本主義のバブルである現代アートの世界をとてもエグくに描いている。マンガとオタクという「庶民的」な「サブカル」の世界を、ギンギラギンの欧米アート言語に巧妙に尤もらしく「翻訳」することで、成功を収めた自分のことを、とても偽悪的に描いている。

そして、国内の清貧な美大生的世界をあざ笑い、挑発し、「悔しかったらやってみろ」と言う。

たぶん、自分がアート業界の人間だったら、とても感情的にニュートラルではいられないだろうな、と思う。

でも、彼の本に沢山、出てくる「文脈」という考え方は、とても面白い。部外者として見たとき、「文脈の翻訳者」としての彼のあり方から学ぶところは多いにありだ、と思った。

実際、欧米アート市場だけでなく、どんな業界にも、「文脈」がある。

文脈は、見えない意味の体系であり、その中にある程度、長く見を置いた人でないと分からない。そこには特殊な用語があり、特殊な価値体系があり、流れがあり、トレンドがある。

たとえば、証券業界には、証券業界独特の「文脈」があった。

「証券業界」の文脈の中には、「短期資金」「為替」「株式」「債券」など文脈があり、「プライマリー」「セカンダリー」の文脈があり、「フロント」「ミドル」「バック」の文脈があり、「フロー」と「ストラクチャー」の文脈があり、「ホールセール」「リテール」の文脈があった。「大手系」「銀行系」「準大手系」「欧州系」「米系」などの分類があり、それぞれが若干、異なる文脈を持っていた。

そして、それぞれの文脈の中には、さらに細かい「サブ文脈」があった。どんな人も、証券業界にいる人は、最終的には何らかの「サブ文脈」に属していた。

たとえば、私が長く身を置いたのは、「市場系のカウンターパーティー管理」という「超サブ・セクター」だった。そこには、その業界だけの、トレンドセッターがいて、プレイヤーがいて、従事者特有の課題があり、トレンドがあり、ゴシップがあり、従事者はみな、文脈を共有していた。

こうした中で、力を持っていたのは、「異なる二つ以上の文脈を理解し、渡り歩くことのできる人」である。

文脈を理解する、というのは、単なる表面の知識ではなく、一つの世界の細かいディテールや「文法=考え方の癖」をディープに理解するということだ。

だから、ひとつの文脈をマスターする、というのは、そうそう簡単に出来ることではない。

だが、一つの文脈をマスターするだけではなく、二つ以上をマスターし、一つの文脈からもう一つの文脈に何かを移すことのできる「翻訳者」は、それによって、大きな価値を提供し、それが出来ない人に比べて大きなパワーを持つことができる。

そう、昔、サンスクリット語から中国語に経典を翻訳した鳩摩羅什のような写経僧のように。。。。

私は、いろいろな世界を渡り歩いてきたけれど、どこでも順応することに精一杯で、本当の意味で、「価値を提供」することを目的として「翻訳」しよう、二つ以上の世界を「渡ろう」としたことはなかったような気がする。

二つの世界は、「ママ友の世界」と、「古美術の世界」でもいし、「アーユルヴェーダ」と、「金融」でもいいのかもしれない。

キーとなるのは、どこまで一つ一つの文脈をディープに自分のものにしているか、と、一つの文脈を学んでいるときに、「もう一つの文脈」を忘れないでいられるか、だ。

村上隆さんの成功には及ぶべくもないが、謙虚に学べば、今よりもう少し、前に進んでいけそうな予感がする。







馴染む場所、馴染まない場所


思い返せば、いろいろな場所に住んだ。

大きなものから小さなものまで、さまざまな集団に参加し、所属した。

幼稚園、小学校、中学、高校のクラスに始まり、大学のゼミ、サークル。バイト先、研修先。

さまざまな場所のさまざまな職場。習い事。ボランティア。

ママ友のグループ、親戚づきあい、近所づきあい。

うまく馴染めた場所もあれば、馴染めなかった場所もある。

場所に馴染み、気の合う同僚、友人、知人に囲まれていた時期の人生は楽しく、

馴染めなかった時期は、苦しかった。

日常生活の幸福度は、天と地ほども違った。

馴染める、馴染めないは、実際にその場所に入ってみるまでは予想できないが、

そこに身を浸して、ある程度の時間が経つと分かってくる。

自分を受け入れてもらえる。。。と思える場所では、心を開いて、リラックスできる。

受け入れてもらえないだろう。。。と思うと、心を閉ざして、貝になる。

いつまでもいたい場所があり、二度と戻りたくない場所があった。

その違いは何だろう?

人間は、どういうことから、自分が受け入れてもらえなそう、とか、受け入れられそう、と感じるのか?

なぜ、うまくいったり、いかなかったりするのか?

「空気」「呼吸」「相性」「苦手感」「得意感」というのは、本当に微妙で、意志で自由にコントロールするのが難しい。

馴染めない場所に、何とか馴染みたい、と望んだときには、意識して、いろいろ努力した。

が、力んだ努力は往々にして全て裏目に出ることが多かった。

努力が実を結ばないと、恨みが溜まった。

時の経過とともに、状況はどんどん悪くなることがあった。

もし、「苦手な人たちばかりの集団」に24時間ぶち込まれ、それが永遠に続くとしたら、うつ病になり、自殺願望を持ってしまうかもしれない。

あるいは、世の中にはそういう不幸な人も多いだろうと予想する。

特定の集団に「馴染める」「馴染めない」の裏には、「馴染みたい」「馴染みたくない」という自分の感情があり、そこには、ヒトやモノに対する「好き」「嫌い」の感情がある。

自分の好悪の情が強ければ強いほど、他人に自分が「好かれている」「好かれていない」が気に掛かるようになる。

自分自身の好悪の感情の垣根を低めていけば、無意識に他人に向けて発してしまっている苦手オーラが消える。

すると「受け入れられる」「受け入れられない」もなくなる。

要するに、馴染める、馴染めない、と自分で決め付けてしまうことそのものが間違いの始まりだ、と言える。

今いる馴染まない場所を嫌い、馴染む場所を探し続けても、馴染む場所には到達できない。

馴染んだ場所に戻りたい、と望んでも、戻ることはできない。

馴染もうが、馴染むまいが、好き嫌いを超えて、「今いる場所」を受け入れることが大切なのだ!

そうしたら、いつかまた、気が付かないうちに、ベスト・スポットに辿り着くこともあるだろう。

「周りに馴染めない」という愚痴は、
さすがに子供っぽすぎるから、金輪際にしよう。