0.0001%の栄光
一度でも、全国区での競争に本格的に参加したことのある人なら、どんな分野でも、「日本一」になるということが、どんなに大変か、実感として分かるだろう。
甲子園で優勝する。
駿台模試で一位になる。
ピアノ・コンクールで優勝する。
水泳のオリンピック選手になる。
総理大臣になる。
それは、0.0001%の確率だ。
これまでの実感からすると、小学校の草野球チームで最優秀打者になったり、ピアノ教室で一番、ピアノが上手なるだけで、すでに、かなりすごい。
どんな分野でも、上位5パーセントに入ることさえ、簡単ではない。
上位5パーセントとは、20人中、1位、ということ。
駿台模試なら、1万人中、500位以内にランクすることだ。学校のクラスのテストで、1位か2位の成績を取ることだ。
一般に、「何かを得意である」というのは、だいたい、そのレベルである。
それに比べると、浅田真央やイチローの成績は、サイコロを振って何千回もゾロ目が出続けるようなすごさだ。
ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグやスティーブ・ジョブズような、世界レベルでのビジネスの成功者は、駿台の模試で50回連続1位を取るようなものだ。
さすがに、個人的知り合いの中にそこまでのすごさを持った人はいない。
それでも、テレビや新聞や雑誌を通して、そういう人たちの姿や言動と身近に接している。というか、マスコミに登場するのは、そういう0.0001%のセレブばかりである。
アナリストランキング一位のアナリスト、世界的に活躍する日本人バレリーナ、カリスマ主婦、子育てと仕事を両立している人気女優。そういう人たちを見ると、チクっと胸が痛む自分がいる。
胸が痛む、とは、おこがましくも、自分とそういう人たちを比べている、ということだ。比べて、自分を惨めに思っている自分がいる、ということだ。
0.0001%に入るというのがどれだけ難しいことか、それを達成し、維持するのにどれほどの犠牲が必要か。それに、そもそも、0.0001%の才能を持つことと幸せは別だ。
そんなことは、頭で十分に分かっている。40歳を過ぎた大人の自分がそんな思いを持つのは滑稽だとも思う。それでも、0.0001%の栄光に憧れている子供のままの私がいるのだ。
そういう思いを持つ大人は、おそらく私だけではない。
スティーブ・ジョブズの自伝や関連本がバカ売れするのは、多くの人々がそこから、コンピューター業界の歴史や、アップル製品が生み出された秘密を学びたいと思っているわけではない。
多くの凡人は、口には出さないものの、心の底では、生まれ変わったら、スティーブ・ジョブズのような英雄になり、0.0001%の人生を生きてみたい、と、まるで小学生の子供のように思っているのだ。本を読むことで自分をジョブズに投影し、ジョブズの行き方を真似たら、もしかしたら自分もジョブズのようになれるかもしれない、と思っているのだ。
仕事を見つけるのも、続けるのも、結婚するのも、子供を産むのも、育てるのも、養うのも、どれも、平凡に、当たり前のことをやりおおすことは、思った以上に大変だった。
中年になってから始めた私のジョギングのペースは、誰にもあきれられるほど遅い。
0.0001%はおろか、どんなジョギング大会でも、40代女子下位5%のレベルだ。
それでも、いちおう、毎日走る。ピッチを変えてみたり、少し余裕のあるときにはダッシュしてみたり、いろいろやってみる。
0.0001%に憧れることは何ももたらさないが、下位5%から10%に上がろうとすることは価値がある。それを実現するにはどうしたらいいかを考えて、具体的に、現実に、努力することができるからだ。
幻想には価値がないが、夢には価値がある。たとえ、中年になっても。
私は、自分で自分にそう言い聞かせながら走っている。
ペアグッズと運命の必然
こんなアフリカの神様のオブジェも、当然、ペアで。
キャンドルや、お皿や、お箸も、なんでも必ず、2つ買う。
洋服も色違いで2枚。
だから、今でも、ペアで持っているものが多い。
きっかけは、どこかの独身女性向けの雑誌の「結婚したい特集」に、「何でも2つ、買っていると、結婚できる」と書いてあった、とか、そんなものだったと思う。
ペアグッズを集めて数年後。私はめでたく結婚できた。
ペア・グッズはご利益があったんだろうか?女性雑誌のアドバイスは正しかったんだろうか?
いや。。。。
今思えば、ペア・グッズの蒐集に、本当にそんな力があったとは思えない。
当時の私は、思うようにならない現実を動かしたいと必死に望んでいた。
未来に影響を及ぼす方策が見当たらないときには、ワラにも縋る思いで、占いや、ペア・グッズの蒐集や、祈りに頼り、それが現実を動かせると信じようとした。
そうした行為に没頭していると、「目的」に近づいている気持ちになり、精神が安定した。
今思えば、ある男女が知り合ってから結婚にいたるか、いたらないかは、さまざまな不確かな偶然の帰結だ。
私のケースも、客観的に見れば、結局、転ぶようにしか、転ばない、ということでしかなかったように思う。
世の中には、「こうしたら」→「必ずこうなる」ということと、「こうしたら」→「こうなるかもしれないが、ならないかもしれない」ということがある。
個人の人生行路や、一国の経済政策などは、後者だ。
「AになるかBになるか、分からない」ものを、「Aにならないと困る!」と考えると、人生、結構、大変になる。
出来るのは、少しでもAという目標の達成に近づけるよう、達成の可能性を高める努力があればする、というだけだ。
必ずAになる、という確証を事前に得ることはできない。
目標を達成した人は、「こうしたから、こうなった」と、自分の個人体験を成功談として語る。事後的に。
その成功談を真似しても、同じ結果は得られない。
真似する人は真似される人と全く同じ状況を作り出すことができないから。
それに、語られた成功談は間違っている可能性もある。
成功した人は、「こうしたから、成功した」と信じているかもしれないが、実際には、その2つのあいだには因果関係はないかもしれない。
世の中の多くのことは、「たまたま。。。」だったりするのに、人は運命や必然を信じたがり、さまざまな出来事を因果関係をもって語らずにはいられない。
ザ・ルールズ のような結婚対策本や、特定のスピリチュアル本、自己啓発本が売れるのは、本来、未来は偶然や予期せぬ出来事に左右される不確かなものなのに、そうではない、人生には、<法則=「こうしたら、きっと、こうなる」という確実な因果関係がある>のだ、と自信を持って語るからだ。
どんな人も、先が不安だ。
ペア・グッズを集めるのは止め、自己啓発本を読まなくなった私も、「いろんなことは偶然に過ぎない、所詮先は分からない、いろいろなことをコントロールできない」という考えに心から馴染むことはできない。
不確かな未来に対し、知らず知らずのうちに「こうすれば、きっとこうなる」、という確実な手ごたえを求めている。
おそらく、宗教や信仰は、こうした思いの先にあるのだと思う。。。。。
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- 存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)/ミラン・クンデラ
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この小説も「偶然」と「因果関係」を巧みに描いていて、示唆深い。
憤慨せよ!
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「怒るな」「ぶすっとした顔をするな」「ニコニコしなさい」と、言われて育ちました。
母は、必ずしも愛想が良くなかった少女の私に、「そんなふてくされた顔していると、福が逃げる。誰にも愛されないし、お嫁に行けないよ」と言っていました。
そう言われて育った女の子って、意外に多いのではないでしょうか?
だから、大学を卒業して、初めてフランスに住んだとき、フランス人があまりにしょっちゅう、怒っているのにびっくりしました。
たばこ屋で、カフェで、老若男女が声を荒げ、怒って、自分の立場を主張していました。
そして、怒った後には、意外とすっきりと、仲直りしているのです。
私も、フランスに長く住んでいるうちに、愛想笑いをしないこと、怒ったり、批判したりすることに、少しずつ、慣れていったように思います。
慣れてしまうと、対立を恐れず、怒りを表に出すことは、結構、気持ちよいのです。
フランス人は、自分のことだけでなく、他人のことにも怒ります。義侠心が強い、ということでしょうか?日本人なら、「悲しみ」「同情」「思いやり」になるところが、フランス人だと「憤り」になるのです。
パリに住んでいたとき、私は仕事が辛く、親しい友人に、会社の愚痴をしょっちゅうこぼしていました。フランス人の女友達は、自分のことのように、私以上に、私の働いていた会社の現状に怒ってくれました。
友人の窮状に対してだけでなく、アフリカの飢餓、アメリカの文化的侵略、官僚主義の非効率性、エリートの腐敗。
彼女は、とにかく、いろんなことに腹を立てていました。
でも、腹を立てるからといって、自分の心が蝕まれるほど、そうした問題のそれぞれを個人的に深刻に抱え込るわけではないのです。
社会の不正に対する憤慨をひとしきりし終わると、彼女は、食べ物や、バカンスや、ファッションや、面白かった映画や恋愛の世界などに戻っていくのでした。
フランス人にとっては、社会の不正に怒ることは、一種のゲームやスポーツなんだ、と思いました。
でも、そうした個人の「怒り」こそが、フランス革命や、レジスタンス運動につながって、フランスの歴史、ひいてはヨーロッパの歴史を動かしてきたのもまた事実なのです。
私がフランスで知り合った人たちは、「怒り」を表に出すことを肯定的に捉えていました。「対立」が進歩につながると考え、怒りを表明することを、市民としての義務だと感じてさえいました。
それからすると、日本の歴史の成り立ちは、フランスと随分、違うし、国民性も違います。
日本の歴史を動かしてきた関が原や、明治維新や、太平洋戦争を考えたとき、人々の「怒り」が歴史を動かした、というのとは、大分、ニュアンスが違います。
日本人は、怒りの感情そのものはどこにもつながらない、と考え、それを乗り越えることを美徳と捉えます。
とくに最近は、「自己啓発、仏教、スピリチュアル」の流行や、精神と健康の関係に対する関心の高まりで、「怒っても無駄。怒ることは損」、という考えが強くなっているように思います。
社会に対する怒りはエネルギーの無駄遣い。怒っても仕方ない。そもそも怒らないためにはどうしたら良いか。自分の精神の健全性を保つには、どうしたらいいか?と考える思考回路です。
米騒動やら、日比谷焼き討ち事件やら、安保闘争やら、日本人も怒るときには怒っていたわけだから、民族として「怒り」が少ない、ということではないと思うのですが。。。。
そんなことを考えながら、文頭の冊子を下手ながら日本語に翻訳 してみました。もし、お時間があったら、読んでみてください。
この冊子は、93歳の元外交官のステファン・エッセルという人が書いた本です(フランスは日本とならぶ長寿国)。フランスで今年始めに出版され、100万部以上売れて、今でもベストセラーランキングの上位に位置しているようです。
グローバル化の進んだ世界で金融危機が相次ぐなか、お隣の韓国を含む世界中に、「フランスのお爺さんの憤慨」が波及しているようです。
ちなみに、今の私は、兜町の250円弁当 に対して、怒りというよりは、哀しみを感じおり、フランス的な「怒り体質」は大分、抜けてしまったようです。
この冊子を読んで、何年も吸っていない、フランスの「怒れる」空気を思い出し、とても懐かしくなりました。