体験する自分、記憶する自分(2)
波乱万丈な人生。
右肩上がり人生。
ひたすら下降していくばかりの右肩上がり人生(>_<)
今の幸せ度を、過去の基準点や、目標からの距離感で測ることで、こうした人生曲線を作ることができる。
この曲線を起承転結のストーリーにしたら「人生の物語」が出来上がる、というわけだ。
自己啓発本には、「まず、自分の人生をこのようなチャートにして振り返ってみましょう」などと言うものがある。
「右肩上がりの人生」は「日経マネー」なんかに出てくるサラリーマン一家のイメージだ。
社宅住まいの平社員からスタート。着実に出世して昇給し、社内結婚し、子供を作り、ローンを組んで一戸建てを購入し、子供は大学に進学して就職。
そこそこ出世して、子会社で働いた後、65歳で円満退職。
健康に恵まれ、年金と資産運用収入で悠々自適。夫婦円満で頻繁に海外旅行に出かける。
並外れた名声と資産はないが、70代の今、高校の同級生の中では、かなり幸せな方だ。。。。
大企業神話が崩れたといわれている今も、日本の中産階級は、無意識にこうした人生のパターンを意識して生きている。
起業で一攫千金のアメリカンドリームも、形は違うが右肩上がりの人生の神話である。
シンデレラや白雪姫などのおとぎばなしも右肩上がりである。
どんな社会も、何らかの形の右肩上がりの神話があり(それは「宗教」であることが多いのだろうが)、それによって人々の希望が保たれる仕組みになっているのだと思う。
では、上がったり下がったりする人生はどうか?
たとえば、早い時期にありったけの良い体験をして、その後下降する人生は。。。。
かなり問題がある。
カーネマン博士 に倣って、次のような例を見てみよう。
着実人生のAさんは、もともと年収100万円だったが、5年後に年収は200万円に増え、6年後には300万円になった。波乱万丈人生のBさんは、年収1000万円だったが、5年後に年収200万円になり、6年後に300万円になった。さて、5年目から6年目の年収の変化(200万円→300万円)がAさんとBさんにもたらした効用は同じか?
答え NO。Aさんの効用がBさんの効用より大きい
そう、波乱万丈人生のBさんは、着実人生のAさんほど5年目から6年目の年収5割アップのありがたみを感じられない。
AさんとBさんの違いは何か?
Aさんのモノサシとなるのは、最初の年収の100万円。それに対し、Bさんのモノサシは1000万円だ。
Bさんは、Aさんと違って年収1000万円を体験している。だから、200万円から300万円に上がっても、常にそれを1000万円と比べるから、「まだ昔と比べたら、全然、大したことない」と思ってしまう。
仲良く同時に年収200万円から300万円に上がったAさんとBさんは、一見、ハタから見たら同じように見えるかもしれない。だが、喪失を体験したことのないAさんと、大きな喪失を体験しているBさんの内心は、まるっきり違うのである。
バブル期を知らない平成生まれの若者は、一般に、「良い時代」を知っている中年より、現在の幸福感が高い、と言われる。
この場合、若者はAさん、大人はBさんだろう。
東南アジアの人々は貧しくても明るいのに対し、豊かな国、日本のサラリーマンの表情は暗い、とも言われる。
これの場合も、伸び盛りの東南アジアはAさん、停滞から下降トレンドの日本はBさんに喩えられる。
失ったことのないAさん。昔より良い今に感謝し、さらに将来を信じて希望を持って生活している。
栄光と転落を経験し、そこから這い上がろうとしているBさん。目の前の改善に、Aさんのような満足感を感じることはできず、過去との比較による苦しみや焦りや不安を感じている。
変化が大きく、先を見通しにくいのに、たいていの人が80年以上の人生を生きる時代。
年をとるにつれ、過去の記憶は役に立つよりアダになることもある。
過去の記憶がモノサシとなり、それを共有しない他人と自分を隔てる壁になる。
それが、世界とのコミュニケーションを阻み、そこに拘っている限り新しい体験によって変化していくことが出来なくなってしまう。
宇野千代は、「男にフラれるたびに私はそのことを忘れた」と言った。
イエス・キリストは、「幼子のようになれ」と言った。
そう、40代以降の人生に求められる知恵は、「リセット」、「忘却能力」なのだ。
(続く)
体験する自分、記憶する自分
おじいちゃんも、高校の校長先生も、成人式のお偉いさんも、私にそう言った。
現代の識者だけでなく、仏陀もそう言っている。
ヴィパッサナー瞑想 は、基本的に「今」に集中するための技術と言っていい。20世紀の叡智、クリシュナムルティ は、「過去の記憶は腐敗物である」と断言している。
「金融業界にいたころは。。。。」、「シンガポールに住んでいたころは。。。。」と、とかく過去の記憶に遊んだり、「将来また外国に。。。。」と未来への夢想に浸りがちな私。
自分を戒めて、「今」に集中しようとする。
でも、「今」を生きるって、本当に出来るんだろうか?
認知心理学者のカーネマン博士 は、一般向けの自著「速い思考、遅い思考 」の中で、自分を、「今という瞬間を体験している自分」と、「過去の体験を記憶する自分」に分けている。
そのうえで、次のような実験とその結果を紹介している。
冷たい手の実験

①被験者の左手を、冷たい(14度)水に60秒、漬ける。その後、手を取り出し、温かいタオルで拭う。
②7分後、今度は、被験者の右手を同じ温度(14度)の水に同じ時間(60秒)漬ける。その後、被験者の手が浸かっている水に温水を少しだけ注ぎ、水の温度を1度程度上げ、30秒経過した後、被験者の手を取り出す(②の実験では、被験者の手は90秒、冷水の中に入っていたことになる)。
③7分後、どちらか同じ体験を繰り返すとしたら、①と②のどちらを繰り返したいかを尋ねる。
被験者はどちらを選ぶだろうか?
8割の人が、②を選ぶのだ。
カーネマン博士は、この単純な実験結果をもとに、「体験する自分」と「記憶する自分」の違いを説明する。
「体験する自分(瞬間瞬間を生きる自分)」は、①60秒の苦痛と、②90秒の苦痛であれば、当然、<時間が短い苦痛=①>を選好するはずだ。
でも、(A)ピークエンドの法則(=人間の体験の記憶を決定付けるのは、ピーク時の体験の強烈さと、終了時の体験の内容である)、(B)時間無視(=苦痛も快楽も長さの長短は記憶に残らない)という認知バイアスより、「記憶する自分」は、②の方が①よりもマシな体験だったと勘違いしてしまう。
本来、①の方が②より苦痛の時間が短いから、①を選ぶ方が合理的なはずだ。
ところが、②の実験によって与えられる苦痛の時間は①より長いにもかかわらず、終わりに若干でも苦痛が減少する(=水温が上昇する)。そのため、「終わり良ければ全て良し」の錯覚を人間の心に生むことになる。
体験する自分は合理的に、<①=短い苦痛>を選ぶのに対し、記憶する自分は<②=長いけど段々弱くなる苦痛>を選ぶのである。
このように、「体験する自分」と、「記憶する自分」の<効用=何が自分にとって良いと思うか>にはズレがある。同じ自分の中に、二つの違う自分がいる、と言っても良い。
「記憶する自分」にとって大切なのは、ピークの体験と、終わりの体験だ。時間はあまり、関係ない。
離婚で終わった結婚生活を振り返って「全てが灰色」に感じられるのも、過去の思い出がエピソードの連続として記憶されるのも、牽牛と織姫が一年の一度の逢瀬に胸を焦がすのも、「記憶する自分」の産物だ。
私たちが人生において「野心」を持ったり、「冒険」を希求したり、「苦難を乗り越えて成長」したいと思ったり、「ハッピーエンド」を求めたりするのも、「記憶する自分」の機能である。
記憶が、自分の人生を「物語」として捉えさせ、過去の記憶を未来を投影して、ストーリーを紡がせようとするのである。
そうした物語の展開に出来事を位置づけることで、人間は、幸せや不幸を感じる。
「過去より幸せだ」、「徐々に不幸になっている」と思ったり、「これは、困難だが、成長のためには乗り越えなければならない壁だ!」と思ったり。
でも、「世界をありのままに見るという観点」からすると、こうした「記憶する自分」が生み出す世界観は、ピークエンド法則と時間無視により、必然的に歪みを生む。
おそらく、ヨーガや仏教系思想が真理に到達する障害としているのは、こうした「記憶する自分」の持つバイアスであろう。
逆に、マーケティング書などで、「商品ではなく『物語』を売れ!」などと説くのは、「記憶する自分」のバイアスを利用しよう、と言うことである。
認知症の老人や、幼児には、「過去の記憶」がない。
「記憶する自分」がない分、バイアスもなく、人生の物語もない。
おそらく彼らの「幸福」と、私たちの「幸福」は、少しズレている。
とても面白くて、奥深いテーマだ!
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新年の食卓
ネット時代の年賀状 書きの苦難について年末に書いた。
お正月のもうひとつの苦難は、意外や意外、新年の食事だ。
お正月の最初の二日間、朝からお屠蘇、お節、お雑煮に加え、ワイン、ビール、日本酒に、鯛、ローストビーフ、海老、蛸。。。。訪れた双方の実家では、これでもかと高たんぱくの食材が並んだ。
ハレの日に、家族が集い、酒を飲み、日ごろ食べられない高たんぱくの食材を満腹になるまで食べ続ける。これはなにも、日本のお正月に限らない。欧米のクリスマス、サンクスギビング、中華圏の旧正月、マレーシアのハリラヤなど、基本的にどこも同じ。家族が集い、楽しく高カロリー食を囲む。
一年の大半を、<ケ=質素で単調なご飯中心の食事>に甘んじ、一張羅で厳しい肉体労働の日々を送っていた昔の農村共同体の人々にとって、家族が集まって着飾ってご馳走を食べる正月は一年に一度の貴重なハレの時間だったのだろう。
大晦日までに全ての労働を終えた人々は、沢山のオカズが並ぶ正月の食卓を、実に晴れがましい気持ちで囲み、お節を食べながら家族全員の一年の無病息災を祈ったことだろう。
伝統的なお節料理に加えて、鯛、ローストビーフ、海老、蛸、テリーヌ、カニなどの動物性蛋白質の高級食材がお正月の定番となったのは、おそらく高度成長時代のことだ。
それからさらに時代が下り、平成も四半世紀が過ぎようとしている今、都会生活者の食生活は、365日ハレといって良い。
インディアン、イタリアン、中華、和食にエスニック。。。。。世界中の食材を簡単に購入できる環境で、海外旅行で馴染んだ外国の料理を外食したり作ったりして、よりどりみどりの味覚を謳歌している都市生活者にとって、濃いしょうゆ味ばかりの正月料理は、逆にモノトーンだ。
なますや煮物なんて、沢山は食べられないから、いつも大量に余ってしまう。
ご馳走こそが幸福と無病息災のシンボルだった時代は完全に終わり、むしろ食べすぎと運動不足が万病の元になっている。
なのにお正月はなぜか、ダラダラと、朝から高カロリー食。さすがに2日目が終わるころには胃がもたれ、吹き出物と口内炎ができはじめる。
コーヒーとパンの朝食、トマトソースのパスタやサラダ、軽めの中華点心が恋しくなる。
お正月の本来の心が、「一年をはじめるにあたり、心の塵を一掃し、新たに清浄な時間をスタートさせる」ということにあるのだとしたら、21世紀の正月は、高カロリー食と決別し、プチ断食や精進料理を食べたり、瞑想やヨーガをしながら過ごすことこそが、相応しいようにも思う。
飽食が二日続いたあと、うれしく頂いたのが、御嶽山の宿坊、山楽荘 での新鮮な自家製こんにゃく。驚くほど美味。翌日の山歩きで、正月二日分のカロリーを消費した。