トラータカ――見ること
30代で独身で証券会社で働いていたとき、とくに、フロントオフィスにいたころは、勝つとか負けるとか、好きとか嫌いとか、好かれているとか嫌われているとか、あっちが良くてこっちは悪いとか、とにかく朝から晩まで比較と競争ばかりで、疲れ果てていた。
それで家に帰ってからは、人に会わず、ひたすらタピスリーを作ったり、トラータカ をしたりしていた時期があった。
トラータカ(TrAtaka)というのは、ヨーガのテクニックの一つで、ひたすら、瞬きもせず、ロウソクの火を見つめ続ける、という行法だ。
タピスリー作りとトラータカの共通の特徴は、無心になれる、というものだろう。
その後、競争と比較が支配する世界からは一義的には身を引いたものの、一度身に付いた習性はなかなか抜けない。
世間で活躍している知人をネットで知ると、即座に「羨ましい」、と感じる自分。
ヨーガ教室に行っても、「隣の人より私がポーズうまいかな」、とさりげなく比較している自分。
「あのときは楽しかったけど、今は楽しくない」と、いつのまにか過去と現在を比べている自分。
AとBならAが有利、と即座に判断しようとする自分。
センセーショナルな雑誌の見出しを見るだけで、「日本はどうかなっちゃうんじゃないか」と、根拠なくネガティブスパイラルに陥る自分。
そのときどきに接する情報や人の言葉に右往左往して、幸福になったり不幸になったりする自分。
そろそろ、またトラータカの修行が必要かもしれない。
トラータカは、自分と、自分の見ているモノが一体に感じられるくらい、モノを見ることに没入するところ
に意味がある。
見るものを、「綺麗」「汚い」と言葉で認識することを止め、思考停止してモノを見つめることで、批判的対象、客体的対象として、いろいろ考えながらモノを見ていたときには見えなかった世界が垣間見えるのだ。
中国の山水画の画家たちは、何時間でも何日でも山や川を見つめ、対象と自分が一体化したと感じて初めて、絵を描き始めることができた、と言う。
フランスの美術館でモネが描いた何十枚もの似たような睡蓮の絵を見た。飽きもせず、これほどまでに同じ対象を描き続けたモネは、庭の睡蓮にトラータカし、完全にそれと一体化していたのではないか思う。
比較しないでモノを知ろうとすること。
目の前にあるものをきちんと観察しようとせず、ちょっと見たり聞いたりしただけで分かったつもりになって、好きだ、嫌いだ、綺麗だ、汚い、上だ、下だ、良い、悪い、と二元的な判断をしないこと。
二元的判断をしていても本当のことは分からないから。
インドの知恵とテクニックは、本当に洞察に富んでいる。これに出会えたことを嬉しく思っている。
ロウソクじゃなくて、花や木でもいいし、おそらく、森の中を何も考えずに歩くことも、一種のトラータカかもしれない。
それで家に帰ってからは、人に会わず、ひたすらタピスリーを作ったり、トラータカ をしたりしていた時期があった。
トラータカ(TrAtaka)というのは、ヨーガのテクニックの一つで、ひたすら、瞬きもせず、ロウソクの火を見つめ続ける、という行法だ。
タピスリー作りとトラータカの共通の特徴は、無心になれる、というものだろう。
その後、競争と比較が支配する世界からは一義的には身を引いたものの、一度身に付いた習性はなかなか抜けない。
世間で活躍している知人をネットで知ると、即座に「羨ましい」、と感じる自分。
ヨーガ教室に行っても、「隣の人より私がポーズうまいかな」、とさりげなく比較している自分。
「あのときは楽しかったけど、今は楽しくない」と、いつのまにか過去と現在を比べている自分。
AとBならAが有利、と即座に判断しようとする自分。
センセーショナルな雑誌の見出しを見るだけで、「日本はどうかなっちゃうんじゃないか」と、根拠なくネガティブスパイラルに陥る自分。
そのときどきに接する情報や人の言葉に右往左往して、幸福になったり不幸になったりする自分。
そろそろ、またトラータカの修行が必要かもしれない。
トラータカは、自分と、自分の見ているモノが一体に感じられるくらい、モノを見ることに没入するところ
に意味がある。
見るものを、「綺麗」「汚い」と言葉で認識することを止め、思考停止してモノを見つめることで、批判的対象、客体的対象として、いろいろ考えながらモノを見ていたときには見えなかった世界が垣間見えるのだ。
中国の山水画の画家たちは、何時間でも何日でも山や川を見つめ、対象と自分が一体化したと感じて初めて、絵を描き始めることができた、と言う。
フランスの美術館でモネが描いた何十枚もの似たような睡蓮の絵を見た。飽きもせず、これほどまでに同じ対象を描き続けたモネは、庭の睡蓮にトラータカし、完全にそれと一体化していたのではないか思う。
比較しないでモノを知ろうとすること。
目の前にあるものをきちんと観察しようとせず、ちょっと見たり聞いたりしただけで分かったつもりになって、好きだ、嫌いだ、綺麗だ、汚い、上だ、下だ、良い、悪い、と二元的な判断をしないこと。
二元的判断をしていても本当のことは分からないから。
インドの知恵とテクニックは、本当に洞察に富んでいる。これに出会えたことを嬉しく思っている。
ロウソクじゃなくて、花や木でもいいし、おそらく、森の中を何も考えずに歩くことも、一種のトラータカかもしれない。
一陽来復
マンションの前の梅のつぼみが膨らんでいる。
暖冬の昨冬は、クリスマスのころから膨らんでいた。
それだけ今年は冬が厳しいということだ。
都会の冬は田舎よりずっと暖かいけど、それでも、1月は寒い。マフラーと手袋をしても、外出はちょっと億劫。
それでも、冬至のころと比べると、徐々に日が長くなってきている。山茶花の赤い花はそろそろ終わり。
気温的にはまだ陰の極なのだが、気持ち的には冬はピークアウトして、春の予感が感じられる。
陰暦の国は今日がお正月だ。
昔は日本のお正月もこの季節だった。まだ寒いけれど、少しずつ陽の明るさが感じられるようになるこの季節から、新しいサイクルが始まるのだ。
一陽来復。易経では陰卦ばかりの中で、一番下の一卦だけに陽卦が戻ってきた形だ。
生の息吹はまだ、梅のつぼみのような小さなものにしか感じられないけど、私もゆっくりゆっくりエンジン始動しよう。。。。
暖冬の昨冬は、クリスマスのころから膨らんでいた。
それだけ今年は冬が厳しいということだ。
都会の冬は田舎よりずっと暖かいけど、それでも、1月は寒い。マフラーと手袋をしても、外出はちょっと億劫。
それでも、冬至のころと比べると、徐々に日が長くなってきている。山茶花の赤い花はそろそろ終わり。
気温的にはまだ陰の極なのだが、気持ち的には冬はピークアウトして、春の予感が感じられる。
陰暦の国は今日がお正月だ。
昔は日本のお正月もこの季節だった。まだ寒いけれど、少しずつ陽の明るさが感じられるようになるこの季節から、新しいサイクルが始まるのだ。
一陽来復。易経では陰卦ばかりの中で、一番下の一卦だけに陽卦が戻ってきた形だ。
生の息吹はまだ、梅のつぼみのような小さなものにしか感じられないけど、私もゆっくりゆっくりエンジン始動しよう。。。。
記憶する自分、体験する自分(3) 御嶽山にて
今年1月2日に行った御嶽山。
御嶽山ケーブルカーを降りるともう夜。御嶽山から臨む東京の夜景が、映画「ET」の一場面とそっくりの絶景であることを知る人は意外と少ない。
去年の正月と同じ宿坊 に泊まり、同じご主人と家族の方々の顔を見る。山菜中心の美味しい夕ご飯を食べる。湯たんぽの入った気持ちの良い布団で寝て、翌朝は、すっきり目覚める。
美味しい朝ごはんを食べ、お弁当を作ってもらい、自家製こんにゃくをお土産に買う。宿から近い場所にある御嶽神社 に初詣して、山歩きする。
驚くほど美しい小川や、滝や、山や、透き通った空気。
夏に登った北アルプスの山々や、富士山とは違い、奥多摩の山々はなだらかで、登山というより、散策に近い。
山腹で昼食を食べた。
山道を歩いてカロリー消費して、青空の下で食べるおにぎりは、びっくりするほど美味しい。
食べ物を美味しく食べるコツは、実に単純だ。思いっきり体力を使ってお腹を空かせれば、何でも美味しいのだ。逆に、お腹が好いていなければ、どんなご馳走もそれほど美味しくはない。
冬の山の夕暮れは早い。4時頃には国道に出て、つるつる温泉 で、日帰り温泉を楽しむ。
冷え切った身体をお湯の溢れる大きな湯船に委ねる。
ジワジワと血行が良くなり、身体全体が生き返る。
次にサウナで汗をかく。その後、ほてった身体のまま、露天風呂で半身浴する。
冬の山歩きの後の温泉ほど、気持ちの良いものはない、と思う。
こういうときの私は、間違いなく、「記憶する自分」ではなく、「体験する自分」だ、と思う。
この日の私には、「御嶽山の1日」が私自身の「波乱万丈」、あるいは「右肩上がり」の人生のどこに位置づけられるか 、などと考える、肥大した自我がなかった。
こうした一日は、あんまり、過去や未来のことも考えない。
御嶽山の体験を、他の経験と比べようとしない自分がいる。
御嶽山で過した一日はあまりに平凡だから、「写真を取りまくってブログに書こう!」とか、「思い出作りしよう!」などとも考えない。
当然、「これで世界旅行50カ国目達成した自分」とか「秘境にいる自分」、「名湯に浸かっている自分」なんて意識もない。
「御嶽山の神道の歴史を調べよう!」という野心もなく、「山歩きで足腰を鍛えてマラソンに備えよう!」とも思わない。
ただ歩き、ただ景色を眺め、ただ、お風呂に浸かる。周囲の人と会話をする。
「疲れたな~」、「綺麗だな~」、「美味しいな~」、「気持ちよいな~」と一瞬一瞬、五感から入ってくる感覚を楽しむ。
日がな、太陽の動きや、光の加減や、空気の冷たさや、川の音を感じる。
変な所有欲や、比較や、自我や、競争や、恐れのない一日。
この御嶽山の一日のように過ごせる日を増やすことこそが、幸せのテクニックかもしれない。。。
御嶽山ケーブルカーを降りるともう夜。御嶽山から臨む東京の夜景が、映画「ET」の一場面とそっくりの絶景であることを知る人は意外と少ない。
去年の正月と同じ宿坊 に泊まり、同じご主人と家族の方々の顔を見る。山菜中心の美味しい夕ご飯を食べる。湯たんぽの入った気持ちの良い布団で寝て、翌朝は、すっきり目覚める。
美味しい朝ごはんを食べ、お弁当を作ってもらい、自家製こんにゃくをお土産に買う。宿から近い場所にある御嶽神社 に初詣して、山歩きする。
驚くほど美しい小川や、滝や、山や、透き通った空気。
夏に登った北アルプスの山々や、富士山とは違い、奥多摩の山々はなだらかで、登山というより、散策に近い。
山腹で昼食を食べた。
山道を歩いてカロリー消費して、青空の下で食べるおにぎりは、びっくりするほど美味しい。
食べ物を美味しく食べるコツは、実に単純だ。思いっきり体力を使ってお腹を空かせれば、何でも美味しいのだ。逆に、お腹が好いていなければ、どんなご馳走もそれほど美味しくはない。
冬の山の夕暮れは早い。4時頃には国道に出て、つるつる温泉 で、日帰り温泉を楽しむ。
冷え切った身体をお湯の溢れる大きな湯船に委ねる。
ジワジワと血行が良くなり、身体全体が生き返る。
次にサウナで汗をかく。その後、ほてった身体のまま、露天風呂で半身浴する。
冬の山歩きの後の温泉ほど、気持ちの良いものはない、と思う。
こういうときの私は、間違いなく、「記憶する自分」ではなく、「体験する自分」だ、と思う。
この日の私には、「御嶽山の1日」が私自身の「波乱万丈」、あるいは「右肩上がり」の人生のどこに位置づけられるか 、などと考える、肥大した自我がなかった。
こうした一日は、あんまり、過去や未来のことも考えない。
御嶽山の体験を、他の経験と比べようとしない自分がいる。
御嶽山で過した一日はあまりに平凡だから、「写真を取りまくってブログに書こう!」とか、「思い出作りしよう!」などとも考えない。
当然、「これで世界旅行50カ国目達成した自分」とか「秘境にいる自分」、「名湯に浸かっている自分」なんて意識もない。
「御嶽山の神道の歴史を調べよう!」という野心もなく、「山歩きで足腰を鍛えてマラソンに備えよう!」とも思わない。
ただ歩き、ただ景色を眺め、ただ、お風呂に浸かる。周囲の人と会話をする。
「疲れたな~」、「綺麗だな~」、「美味しいな~」、「気持ちよいな~」と一瞬一瞬、五感から入ってくる感覚を楽しむ。
日がな、太陽の動きや、光の加減や、空気の冷たさや、川の音を感じる。
変な所有欲や、比較や、自我や、競争や、恐れのない一日。
この御嶽山の一日のように過ごせる日を増やすことこそが、幸せのテクニックかもしれない。。。