続・高見王についての推理 | Coachぽぽろんのブログ

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前回までの推理で、冤罪で亡くなった中臣王が高見王でその高見の子が高望、恒望、真砂子ではないかと私は考えていましたが、高望についての生誕年についての記述が文献によってバラバラで、しかも年代にかなりの幅があることに気づきました。

 

さらに妻とされる人物の年齢や高望の息子たちの年齢からしても、中臣王=高見王ではなく、中臣王の息子が高見王だったのではないかと思いました。

 

冤罪に巻き込まれ記録が一旦消され、後から書き直されて記録に誤字が生じたり、通常は皇子は21歳になると官位を授けられますが、親や身内が冤罪に巻き込まれ何十年も無官のままにされ、老人になってから官位を回復された先祖もいます。

 

文献によっては官位を初めて得た年を21歳と類推して生誕年を逆算しているものもあるようですが、冤罪など訳あり皇子の官位取得年からの計算は、あまり当てにならないわけです。

 

長屋王の冤罪事件に娘婿というだけで巻き込まれ無官になり40年後の高齢になってから官位を回復できた先祖もいました。

 

官位取得年を21歳だと思い込んで計算してしまうと生誕年予測に数十年のズレが生じてしまいます。

 

 

高望王はだいたい830~840年生誕ではないかと予測されていますが、恒持神社の社記によると806年頃に高望王の弟が恒望王が冤罪で左遷されて武蔵に赴任したとあるようです。

 

807年に中臣王が冤罪に巻き込まれる直前に恒望王にも冤罪トラブルが起きていたということでしょうか。

平城天皇即位により、異母兄弟たちが次々に冤罪に巻き込まれていたということではないでしょうか。

 

恒持神社の記録の年や登場人物名が正しいとすると(創建者が創建の年号や人名を間違ったりしないでしょうから。)年齢からしても、恒望王は中臣王の弟かもしれません。そして平高望が生まれる数十年前にも高望王という同じ名前の皇子がいたことになります。そして弟の名前が恒望王だったということになります。

 

おそらく中臣王は幼名で生母の名字をつける、よくあるパターンです。

のちに高望王とか高持王とか高見王とか授かった親王名で呼ばれ、冤罪で親王名を剥奪され、昔の名前の中臣王で記録された可能性があり、桓武平氏の祖の高望または高見と混同された可能性もあります。

 

偉大な先祖と同じ名前をつける、二代目襲名とか、うちの先祖あるあるですので、中臣王の別名が高持(たかもちと読む)高望(たかみとも読む)など同じ字か同じ発音の名前だった可能性も十分にありえます。

 

中臣王の先祖が高向王と持統天皇なので、ふたりから桓武天皇が高持とつけた可能性があるからです。

 

推理をまとめてみますと、

 

藤原薬子は愛人の平城天皇が即位し、彼女から見て邪魔な存在は、平城天皇の異母兄弟や、側室ライバルで皇子を産んでいた伊勢継子であったと思います。

 

伊予親王や中臣王や恒望王が冤罪トラブルに巻き込まれた原因はそれでしょう。中臣王は伊予親王の侍従でしたし。

 

中臣王や弟の恒望王は平城天皇の異母兄弟でもあり継子のいとこなので、薬子の本当のターゲットはこの兄弟だったのではないでしょうか。ライバル継子の産んだ皇子に皇太子になられては困るから親族をおとしいれたのでは。

 

中臣王は807年に拷問による傷が原因で亡くなり、おそらく中臣王の母(吉備こと中臣豊子)や伯父(大魚こと豊国)も責任をとらされ他界したのかと思われますし、橘氏の娘?との息子の高見王はまだ1~2歳の乳幼児で中臣王の弟葛原親王に育てられ、冤罪と判明しても中臣王の官位も回復されなかったからか、高見王も無官皇子のまま早くに他界したのでしょう。

 

 

820~830年頃に高見王は(おそらく母方親戚の)橘春成の娘と結婚し、高望が830年代に生まれたのではないでしょうか。

 

おそらく中臣王の冤罪トラブルの影響と、父親が無官だったことで、高望も官位を授かるのがかなり遅れ、そのままだと高見王同様に無官皇子で終わるため、桓武平氏を授かり皇室か降下して出世できたのだろうと推理します。

 

高望が父親高見のために、中臣王の先祖荘園に無量寺を建てたり、中臣王子孫の村岡五郎が身内北条に先祖荘園に冤罪被害者を祀る神社を建てさせたり、高見や高望を祀らせているため、彼らが冤罪被害にあった中臣王の子孫であるのは確かだと思われます。

 

中臣王の名前で祀られないのは、中臣王が幼名で、高望とか高見とか子孫と同名だった可能性もあると思います。

 

吉備内親王と田中吉備(中臣豊子)は親族同士で同じ名前で、しかもふたりとも冤罪被害にあい、ふたりまとめて吉備聖霊として祀られています。

 

大事な先祖を亡くし子孫が同名を名乗るのはうちの先祖家あるあるなのです。

 

 

そのため同名皇子が違う年代に登場し系譜で混同されたり、しまいには実在したのか?みたいなことになったのだと思います。

 

だいぶ登場人物と年代が符合して来ました。