聖徳太子と高向玄理と小野妹子 | Coachぽぽろんのブログ

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母の法要でうちの供え膳を見た住職さんから、お供えは通常は5皿で真ん中の壺皿には水を入れるものと教わりました。

 

我が家の文化には無い作法でした。

 

 

奈良時代は庶民は玄米、味噌汁、水、漬け物、野草のおひたしと5皿、下級役人は玄米で7皿、貴族は白米の炊き込み御飯で15皿だったそうです。

 

宮廷には給食センターに相当するものも職員食堂も完備されてあり、私の先祖らは二食を宮中の食堂で食べていたようです。

地方に赴任する時には内膳職の高橋氏を帯同させてご飯を用意してもらっていたと思われます。

 

 

先祖は百済から仏教を日本に入れた蘇我氏ですが、ドラマに映る百済のお供えの品数はすごいですよね。それくらい法要では先祖にご馳走をたくさん振る舞う文化がある豊かな国なのでしょうね。

 

我が家もお供えは昔の先祖時代には15皿、祖母の時代に10皿まで減らし、母が二の膳がいらない奇数の9皿までに減らしました。私が5皿にまで減らすのは躊躇いますね。

 

ご先祖様からしたら、お供えの皿数が時代を追うごとに減って行くのは、がっかりすると思うんですね。

 

戦争中ならまだしも、この飽食の時代におかずが漬け物と煮物だけのお供えとか寂しい。

 

住職さんが5皿で良いと言っても、本当は昔の通りの15皿がいいかなと考えています。

 

奈良時代の先祖らが食べていた給食メニューの豪華さがこれまたすごいのです。

 

 

奈良時代の宮廷は夏は朝5時半の開門で、それに合わせ出勤、夜7時に閉門で帰宅だったとか。

先祖らは隣村から徒歩で通うと未明に出勤していたと思われます。

 

宝皇女は離婚の時に息子の漢皇子をうちの先祖家においていった説を私は正解だと思っています。

 

漢皇子と思われる足麻呂は湯沐令でした。私はその文字を見た最初は、皇室の湯治場の管理人かと思いましたが、湯沐令とは皇后や皇太子の領地を管理し、機密組織の指揮官を兼ねている側近だそうです。

 

蘇我氏を攻撃し滅亡させた宝皇女が蘇我氏一族の足麻呂にそんな要職を与えたことからして、相当な信頼の仕方です。

 

足麻呂は宝皇女が我が先祖家においていった漢皇子だと思わざるを得ません。

我が子だからこそ会いたくて側近にして身近な部署においたのだと思います。

天武天皇からも頼りにされたのは足麻呂が兄だからだと思います。

 

そして高向王が亡くなると宝皇女は都を足麻呂の家のある街、飛鳥田中宮に移しています。

これは足麻呂や孫の法麻呂の近くに行きたかった、そして子や孫が宮廷に通勤するのに楽なところに移したかったからではないでしょうか。

 

 

さて聖徳太子には第一夫人から第四夫人までいまして、馬子の娘は第三夫人です。

長谷王は第四夫人高橋妃との息子だそうです。

 

聖徳太子の弟の高向王がバツイチでしたし、高向王や遣隋使小野妹子のことも太子は信頼していたので、ふたりには太子は娘を嫁にやったのではないかと思います。

 

片岡女王を小野妹子の嫁にしたのではないかと見ています。

妹子の息子が小野毛人という名前です。

小野毛人の孫が竹良で、私の先祖です。

 

高向王の再婚相手として嫁に出した娘は第二夫人の橘大郎女(尾張皇子の孫)が産んだ手島女王ではないかなと見ています。先祖が長尾とか旭尾張とか八尾の地名を作っていることからしても。尾張皇子が先祖にいそうです。

 

生まれた息子がたぶん安曇連を名乗った稲敷。

足麻呂の弟。安曇から渥美や温海、熱海の地名ができたと思います。

足麻呂と法麻呂の親子だけが天武天皇に目をかけてもらい出世し、弟の稲敷は地方赴任で終わっているのは、やはり足麻呂が漢皇子で天武天皇の兄だったから宝皇女や天武天皇が身内を重用したからだと思いますね。

 

 

長谷王は佐富と結婚し、その娘が足麻呂の嫁になり生まれた法麻呂は、聖徳法王の法をつけているため太子の血筋だと思います。


 

 

そして、高向王と小野妹子の子孫同士が奈良時代に結婚し、聖徳太子の血が濃くなっています。(笑)

 

聖徳太子と小野妹子と言えば六角堂。

先祖の多太麻呂が荘園につけた六郷、六戸、六厩、角館、鹿角、角田の地名は太子や六角堂が由来かなと思います。