最近、よく泣きそうになることがあって
もうちょいって言う感じもするんだけど 笑
それは悲しみの感情ではなくて
どちらかと言うと安心感に近いと言うか
もっと自分の中での言語化がうまく出来るようになったら
また書くこともあるかもだけど
さらに色んな謎がさらに解けて来たと言うか(自分の中で)
イメージとしては
意気揚々と(人生の)旅に出たはいいけど
長く長く歩き続けて
途中迷子にもなって
方向が分からなくなっちゃったこともあって
↑社会の基準と言うものに自分を合わせすぎて
方向感覚が分からなくなっちゃったとも言えるかも 笑
やっと家の近くまでたどり着いた感覚と言うか
そうそう
この道知ってる
ここで道草食うの好きだったよねとか
実際の思い出とも被ったり被らなかったり
色々あるんだけど
自分の本質のようなものに戻って来たと言うか
真ん中に戻って来たと言うか
そんな感じかも
でね。戻れば戻るほどに
本当に旅の中で体験したあれこれは
結局自分の中でしか起こっていなかった
ある意味幻想だった
すべてカンペキだったとわかってくる(腑に落ちて来る)んだけど
なかなかここの部分を自我(アタマ)で理解する
受け入れるのが難しいこともあるかもで 私自身も同じでした ^^
やはりそれぞれのペースでいっぽいっぽ
なのかも知れません
で、じゃあどうしてこんなことを書くかと言ったら
自分の見ている 体験しているセカイがすべてだと信じているのと
もしかしたらそれは自我の誤解だったのかも知れないと
知っているのでは
やはり違いがあるのではないかなと思うから
信じるか信じないか
受け入れるか受け入れないかもそれぞれの自由だし
一つの絶対的なセイカイ。
みたいなものがあるわけでもなくて
自分がその瞬間ピンとくるもの
自分に合うものから入って行ってもいいと思う
で、『いまのげんじつ』から逃げるために
現実を幻想だと思い込もうとするのは
結局何も変わっていないと言うトリックだったりもするので
なかなか奥が深くて面白いよね ^^
オマケ
目の前のゲンジツと言うものがどうであれ
カンケイなかった ^^
それは
たとえば
絶望のどん底のようなものに突き落とされたとき
その場所で気が済むまでうずくまり
もうどうにでもなれ。となったとき(自我が) 笑
自分の力が抜けたとき
ナニカに対する執着が手放せたとき
それは色んなケース パターンがあるかもで
たとえば
自分の経験で言ったら
若い頃に経験したペットロスのように
無意識のうちに徐々に
時間の経過とともにと言うこともあるかもだし
今の様に波動が高くなっている時代なら
もっと早くパッと切り替えられると言うひと(こと とき)も
いる(ある)かも知れません
これを言い換えると
そのモンダイのようなものと
自分自身を切り離せる
執着を手放せると
そのモンダイのようなものは
もう自分とは関わりのないものになる
と言う言い方もできるかも知れません
ゆるめる
手放す
自分とつながる
焦らずいっぽいっぽ ^^