例えば、
一つ上の小学生の従兄弟が漫画を読んでいた。
そこから、漫画に興味を持ち、読むようになった。
数ある漫画の中に「ジョジョの奇妙な冒険」があった。
作者の執筆は2011年に30周年を迎え今も連載が続く。
第4部(全8部)の物語に『岸部露伴』という登場人物がいる。
2011年8月にはファッションブランド『GUCCI』のブランド設立90周年と作者の執筆30周年を記念してファッション雑誌『SPUR』に『岸辺露伴 グッチへ行く』が掲載された。(Wikipediaより引用)
そして、私は、GUCCIを好きになった。
従兄弟が漫画を読んでいなければ
いろんなジャンルの漫画を見て比べることができなければ
途中で『週刊少年ジャンプ』を買うことを止めていたら
仕事に追われ体裁を気にする大人になって漫画を読むことから離れていたら
GUCCIを好きになっていないかもしれない。
いや。
そもそも、従兄弟のことを好きでなければ、GUCCIを好きになっていない。
作者:荒木飛呂彦氏のことを好きでなければ、GUCCIを好きになっていない。
『岸部露伴』という登場人物を好きでなければ、GUCCIを好きになっていない。
“人間”を好きになっていなければ、GUCCIを好きになることは、なかっただろう。
恋愛対象・同僚・友達・ライバルとして「好きな人」が、「好きなもの」を好きになる。
今「好きなもの」の中には、「好きな人」からもらった「出会い」だったものもあるはず。
「嫌いな人」からもらった、鉢合わせた「出会い」として「嫌いになったもの」もあるはず。
好き・嫌いの判断が、「出会い」の後でなく、その前である『人間』で決まることもしばしば。
「好きなもの」がおおい人はただの多趣味か、もしくは、「嫌いな人」がすくない人だろう。
・
今好きなものに、好きな人からもらった出会いがあるはず
なかには、嫌いな人からもらった出会いもあるはず
「出会い」自体は、自然のように時に厳しくもあり優しくもある
雨が降り続けば雨を「嫌い」になり、日照り続きからの久しぶりの雨は「好き」になる
出会いの価値を決めるのは、『そのときの自分という人間』
毎日この世界のどこかで雨は降り、どこかは夜にならず、どこかは大地が枯れる程に晴れている