1979年第29回大会で一番の話題は、音楽祭全体のマネージメントをする時期によってパトロン、オーガナイザー、芸術監督と表現が変りますが、なんと総責任者の事でした。テーマも「サンレモ音楽祭の復活」でその名の通り『サンレモ男』も復活しました。

 

                                 

          ミーノ・ヴェルニャーギ (RI FI)         フランコ・ファニリューロ (Ascolto)

 

 その男こそジャンニ・ラヴェーラで54年に歌手として出場しますが、目だった成績を残していませんでした。

 彼が有名となったのは62年(第12回)から68年(第18回)まで連続7回と共同開催で71年、生涯で17度オーガナイザーを務めています。彼の功績は音楽祭の発展と、国際音楽祭に昇格させ世界のポピュラー音楽祭の仲間入りをさせたことでした。

 そのラヴェーラとマイク・ボンジョルノが79年の音楽祭、存続の危機にもなった状態から這い上がろうとしているサンレモに戻ってくるという話は大きな話題でした。

 

第29回 1979年1月11日(木)~13日(土) サンレモ市アリストン劇場(Teatro Ariston di Sanremo)

司会:マイク・ボンジョルノ(Mike Bongiorno)、アンナマリア・リッツォーリ(Annamaria Rizzoli)

オーガナイザー:ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)

 

[数]は外人歌手数、1979年は外人の出場は3歌手

・RCA Italiana 4[0] RCA 2[0] ;ARC 1[0];IT 1[0]))

・CGD 4[0] (CGD 1[0];Ascolto 1[0]);Baby 1[0] ;Kontiki 1[0])))

・Dischi Ricordi 4[1] (Ricordi 2[0]; Ariston 2[1])

・Phonogram 2[0] (Polydor 1[0]);Philips 1[0]))

・Durium 2[0]

・EMI Italiana 2[1]

・Fonit Cetra 1[0]

・Ri Fi 1[0]

・WEA Italiana 1[0] (It Why 1[0])

・SIF 1[1] Barclay 1[1])

 

                                        マリネッラ (Ariston)                 パンデモニウム (RCA Italiana)

 

 参加レコード会社はRCAイタリアーナ・グループとリコルディ・グループが4歌手で前年通り、CGDグループが3から4歌手に1増で親会社CGDの他はカテリーナ・カセルリ(Caterina Caselli)が起ち上げたアスコルト(Ascolto)と傘下のベビー・レコーズ(Baby)、マイナー・レーベルのコンティキ(Kontiki)が加わりました。

 1歌手から2歌手に増えたのはEMIイタリアーナ、フォノグラム、ドゥリウム、前年と変わらず1名がフォニット・チェトラ、リフィ、WEAイタリアーナでした。前年実績なしはフランス人のアントワーヌ(出場4回目)を招いたバークレイのイタリア法人SIFです。

 前年実績1歌手からゼロになったのがサール(SAAR)、イェップ(YEP)、アリス(ARIS)の3社でした。

 

 

 <優勝曲>

アマーレ Amare (Piero Finà - Sergio Ortone) 出版社 RI-FI Mus. <1441> ミーノ・ヴェルニャーギ (vm) Mino Vergnaghi (Ri Fi)RFN・NP-16772 [45]

 

                 RFN・NP-16772

 

 

第2位 バルバラ Barbara (Pasquale Panella - Enzo Carella) 出版社 IT –Jeans –RCA – R  <1257> エンツォ・カレッラ (vm) Enzo Carella (IT – RCA Italiana) ZBT- 7127 [45]

 

ZBT- 7127  Ld・Al-8039

 

第3位 暗闇の心 Quell'Attimo In Più (Oscar Avogadro - Daniele Pace - Mario Lavezzi) 出版社SUGAR – DURIUM <1256> カマレオンティ,{イ・} (compl) Camaleonti (Durium) Ld・Al-8039  [45]

 

 

<入賞曲>

4位自由な瞳 La Gente Parla (ntonello De Sanctis - Sandro Di Nardo - Marcello Marrocchi) 出版社JUBAL - NUOVA IDEA < 1210> コラ-ジェ (compl) Collage (Ricordi – Dischi Ricordi) SRL-10・891 [45]

 

SRL-10・891  BR-077
 

5位花だろう Sarà Un Fiore (Daniele Pace - Mario Panzeri - Corrado Conti) 出版社 TELEVIS <1196> エンリコ・ベルスキ (vm) Enrico Beruschi (Baby Records – CGD) BR-077  [45]

 

 

6位 殿様気取り A Me Mi Piace Vivere Alla Grande (Daniele Pace - Oacar Avogadro - Franco Fanigliulo -Riccardo Borghetti) 出版社 SUVINI ZERONI <1156> フランコ・ファニリューロ (vm) Franco Fanigliulo (Ascolto - CGD) ASC-10142 [45]

 

ASC-10142  PB-6283

 

7位ニュー・ヨーク New York (Franco Migliacci - Flavio Paulin) 出版社 RCA - R <1149> ロレッラ・ペッシェレッリ (vf) Lorella Pescerelli (ARC – RCA Italiana) PB-6283 [45]

 

 

8位 青空の稲妻 C'Era Un'Atmosfera (Aldo Stellita - Piero Cassano) 出版社 LA BUSSOLA <1054> キム&キャデラックス (compl=e) Kim & The Cadillacs (Ariston - Dischi Ricordi) AR-00846 [45]

 

AR-00846  T-17308

 

9位 私の少女 Bimba Mia (Umberto Napolitano) 出版社 BLUE TEAM - IT WHY <1044> ウンベルト・ナポリターノ (vm) Umberto Napolitano (It Why – WEA Italiana) T-17308 [45]

 

 

10位 ふきげんなあなた Tu Fai Schifo Sempre (Anelo Giordano - Gianni Mauro - Michele Paulicelli) 出版社 RCA – R <993> パンデモニウム (coro) Pandemonium (RCA – RCA Italiana) PB-6280 [45]

 

PB-6280  BRC・NP-40089

 

11位 ノッチョリーノ Nocciolino (Maurizio Piccoli) 出版社 FAMA <957> アントワーヌ (vm=f) Antoine (Barclay – SIF) BRC・NP-40089 [45]

 

 

12位 リアーナ Liana (Loreno Lazzarini) 出版社 INTERSONG ITALIANA <854> グリム、{イ・} (compl) Grimm (Polydor – Phonogram) 2060-190 [45]

 

                   2060-190

 

 

以上入賞曲

 

 

 77年のマティア・バザール (Matia Bazar)78年のアンナ・オクサ (Anna Oxa)などの新人スターを輩出し、出場曲が少ないのにもかかわらず年間ヒット・ランク100に4,5曲入る好成績を収めたことが各レコード会社にも認められ、参加応募曲も増えました。

 79年はレコード会社の応募曲800曲から20曲が選ばれ、音楽出版社団体に所属しない作曲家の楽曲を2曲追加した22曲で争われました。

 

 

            

           イ・グリム (Polydor)                   ニコレッタ・バウチェ (Philips)

 

 予選の第1夜、第2夜にそれぞれ11曲が披露され、その中から上位6曲が最終日(第3夜)の決勝戦に進みます。予選2夜はTV放送がなくラジオ放送のみで、審査員はイタリア全土で10ヵ所、学生、兵士、工場労働者、農民など各階層の10人グループが審査員となり投票をして順位を決めていきます。決勝戦はTV中継があり同様の方法で投票されますが、最終順位は予選での獲得投票数が加算され、優勝から12位までが決まり、上位3位までが表彰されます。

 

 

               

          アイックス (EMI Italiana)       マッシ-モ・アッバ-テ (RCA Italiana)

 

 

 79年初参加のレコード会社4社、CGDのアスコルト(Ascolto)、CGD傘下のベイビー・レコーズ(Baby)、コンティキ(Kontiki)とWEAイタリアーナ傘下のイット・ホヮイ(It Why)でした。まずカテリーナ・カセルリが設立したアスコルトから紹介していきます。

 

アスコルト(Ascolto)

   

 70年CGDの所有会社シュガー・ミュージックの御曹司ピエロ・シュガーと結婚したカテリーナ・カセルリは75年歌手を引退し、カテリーナ・カゼッリ・シュガーとして夫ピエロに協力しCGDのマネージメントに携わります。CGDに所属していた同郷のフォーク系自作自演歌手ピエランジェロ・ベルトーリ(Pierangelo Bertoli)が会社の方針に沿わず、自分の方針に固執して軋轢を生じていました。

 

 カテリーナは彼の才能を伸ばす場、新たな音楽を目指すレーベルをグイド・カロータ(Guido Carota)とイタリア最初の民間ラジオ局開設者チェザーレ・モンタルエッティ(Cesare Montalbetti)の協力を得てアスコルトを作りました。

 

 一方親会社CGDが大変な困難に遭遇します。アメリカCBSと資本提携し、CBSシュガーとして協力していましたが、CBSがプーやマルチェラ、ウンベルト・トッツィ等看板スターを連れてCBSディスキとして独立し、いっぺんに経営が傾きます。

 

 こうしてアスコルトは親会社を頼る経営が出来なくなりました。ベルトーリの他に日本でもレコードが出ているロック・バンドのアレア(Area)、地中海音楽のペペ・マイナ(Pepe Maina)、元PMFのマウロ・パガーニ(Mauro Pagani)、日本で未発売のファウスト・O(Faust'O)、ミクソ(Mixo)や79年サンレモ音楽祭出場のフランコ・ファニリューロが加わります。

 

 親会社CGDの経営環境は一層厳しさを増し、新たな音楽を目指したアスコルトは82年に閉鎖となります。CGDの録音スタジオはラ・ビオンダ兄弟の貢献で大会社となったベビー・レコーズに売るなど資産売却等のリストラを進めますが、遂に88年世界資本WEAにCGDを売却せざるを得ませんでした。シュガー一族はCGDから撤退を余儀なくされます。

 

 しかしカテリーナはその後アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli)、フィリッパ・ジョルダーノ(Filippa iordano)などを輩出し、イタリアを代表する女性プロデューサーとしてシュガー・ミュージックを再興しました。次もCGD傘下のコンティキです。

 

 

コンティキ(Kontiki)

 詳しい情報が一切ないレコード会社です。79年サンレモ音楽祭に出場したロベルタが第1号契約歌手で78年に初めてレコードを出しています。親会社は音楽出版社CONTAPEではないかと思われます。レコード会社、音楽出版社にはCGDの設立メンバーでイタリアのジャズピアニスト、楽団オーナー、作曲家のレリオ・ルッタツィ(Lelio Luttazzi)が関係しているようです。

 

                

 

 

サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)1979年 2は次回に続きます

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。

・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、音声映像は貼り付けておりません。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。