「手に足に」一文字の重み
手に足に おきどころなき 暑さかな by 一茶
小学生の頃学校のクラブ活動で書道班に入っていたため、しばしば俳句を引用したり、勝手に自作したりしてそれを小筆で書いて脇に墨絵を添えて作品に仕立てるなんてことをしていました。
たしか5年生のとき、暑中お見舞いもどきを作品にすることになって、私が選んだのは上に引用した小林一茶の句でした。が、ややうろ覚えだったというか、たいして覚えてもいなかったため、こんなふうに書いてしまいました。
手や足に おきどころなき 暑さかな by 小学生の私
ほとんど仕上がりかかっていた時に一字の誤りに気づいて、しまったと思ったものの、日本語としてとおらないわけではないからまあいいかなどと気楽に考えていました。当時の私は今以上に加減な子だったのです。
が、顧問の先生に厳しく叱られました。
「あなたね、『手に足に』と言うのと『手や足に』と言うのとでは全然違うでしょ。
それはダメよ! 『手や足に』なんて言ったら、『手にも足にも』というのが伝わってこないわ。」
その先生に言われた他のことはあまり記憶にないけれど、このとき言われたことにかぎっては今でも昨日のことのようによく覚えています。
たった一つの助詞の違いは大きく、言葉遣いはおもしろいものだと、興味を掻き立てられました。
それにもまして、たった一文字の違いをここまで如実に浮き彫りにした一茶の手腕を今一度見事だと思いました。
俳句というと、五・七・五で書かれた詩として習うけれど、俳人というのは文字数を合わせるだけではなく、一文字にぎゅっと大切なニュアンスを込めているのだと肌で感じたのは今でも良い思い出です。
子どもにとって、印象的な指導を受けること、印象に残る大人と出会うことは、のちのちの関心事を左右する決定的な出来事でもあります。まあそこまで激しくない場合もありますが、どうということのない一場面が、ふとしたことをきっかけに、生徒の心に残りつづけることがわりとあるようです。
けれど、どの一言やどの手助けが生徒側にとって印象深いものとして残るのかは、教師にとって予測不可能です。教師のほうこそ自分はあのときああした、こうしたと覚えていても、生徒はそれを屁とも思っていなかったりもします。また、生徒も生徒で、どの先生のどの場面が印象にのこっているなどということを、はっきりと教師に伝えることは稀です。教師と生徒は不思議な関係です。(←オチのないつまらないシメでした)
小学生の頃学校のクラブ活動で書道班に入っていたため、しばしば俳句を引用したり、勝手に自作したりしてそれを小筆で書いて脇に墨絵を添えて作品に仕立てるなんてことをしていました。
たしか5年生のとき、暑中お見舞いもどきを作品にすることになって、私が選んだのは上に引用した小林一茶の句でした。が、ややうろ覚えだったというか、たいして覚えてもいなかったため、こんなふうに書いてしまいました。
手や足に おきどころなき 暑さかな by 小学生の私
ほとんど仕上がりかかっていた時に一字の誤りに気づいて、しまったと思ったものの、日本語としてとおらないわけではないからまあいいかなどと気楽に考えていました。当時の私は今以上に加減な子だったのです。
が、顧問の先生に厳しく叱られました。
「あなたね、『手に足に』と言うのと『手や足に』と言うのとでは全然違うでしょ。
それはダメよ! 『手や足に』なんて言ったら、『手にも足にも』というのが伝わってこないわ。」
その先生に言われた他のことはあまり記憶にないけれど、このとき言われたことにかぎっては今でも昨日のことのようによく覚えています。
たった一つの助詞の違いは大きく、言葉遣いはおもしろいものだと、興味を掻き立てられました。
それにもまして、たった一文字の違いをここまで如実に浮き彫りにした一茶の手腕を今一度見事だと思いました。
俳句というと、五・七・五で書かれた詩として習うけれど、俳人というのは文字数を合わせるだけではなく、一文字にぎゅっと大切なニュアンスを込めているのだと肌で感じたのは今でも良い思い出です。
子どもにとって、印象的な指導を受けること、印象に残る大人と出会うことは、のちのちの関心事を左右する決定的な出来事でもあります。まあそこまで激しくない場合もありますが、どうということのない一場面が、ふとしたことをきっかけに、生徒の心に残りつづけることがわりとあるようです。
けれど、どの一言やどの手助けが生徒側にとって印象深いものとして残るのかは、教師にとって予測不可能です。教師のほうこそ自分はあのときああした、こうしたと覚えていても、生徒はそれを屁とも思っていなかったりもします。また、生徒も生徒で、どの先生のどの場面が印象にのこっているなどということを、はっきりと教師に伝えることは稀です。教師と生徒は不思議な関係です。(←オチのないつまらないシメでした)