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春の香

昨日は夜こそ冷え込んだものの、昼間は日差しに春が兆していたのだろうか。たまたま近くの建物へ渡り歩くのにコートも羽織らず屋外に出たところ、身にしみる冷気もかえって心地よく、毎年この時期になるとお決まりのようにめぐってくる期待と彩りに満ちた春先の新鮮な思い大気の中に汲み取った気がした。

確実に春が近づいている。空気に春の香りがするのだ。以前より湿度の増した空気には、花の香が溶け込みやすく、人々の鼻先に一早く春を知らせんとばかりに風がひそかにほのかに香る。

Nのブログ

太陽は季節の色を鮮やかに引き出す。そして花というのはよくできたもので、 — そもそも自然というものはよくできたものだ — 春の花は春の日差しに、夏の花は夏の日差しにもっともよく照り映える色をおのずとまとう。

まだ淡い色の春の花が、和らいできた日差しを浴びて透けるように色を放っているのを見ると、小学生の頃校庭の花壇に見た花の色と、それを見ていた自分とがしのばれて、やりきれないような、ゆかしいような、不思議な気分になる。

昨日そんなふうに、自然を通じて昔の記憶が蘇ってきた瞬間、ふと思い出したのが Guy de Maupassantモーパッサン の Le Horla 『オルラ』(1887)冒頭部。


主人公の住いはセーヌ流域のルーアンよりも下流。芝生の上に身を横たえると、大地を通じて先祖の土地に結びつく感覚を覚える。まるで彼自身が根を持ち、その根によって、自分の思考や食物、習慣、土の香り、そして大気につながっているかのよう。彼の家の窓から見えるセーヌ河は広く緩やかに、ルーアンからル・アーヴルへ向かう船とともに流れている。


ざっと、じつにざっとつまめばこんな感じの話だが、実際のテクストは名文だ。
地上の主人公と大気と大地の結びつきは垂直の流れ。
上流から下流へ向かうセーヌ河と船は水平の流れ。
2つの流れの交わる点において、
今から昔への遡及(大地と先祖に結びつく感覚)と、
過去から未来への時間の流れ(水が下流へ向かう)とがからみ、
過ぎ去っていく時間と、遡っていく時間とが、物質的にも精神的にも交錯しているように読めないだろうか。

おそるべし19世紀小説。