Text or Nothing -289ページ目

パフォーマンス

フィギアスケートの演技を見るたび思い出すことがある。

昔バイオリンの先生が、こんなことを言っていた。「難しい曲こそ簡単そうに弾くものだ。フィギアスケートの選手は、苦しいときにも必死そうに見せないからこそ美しい

プルシェンコのSPは勢いがあってさすがだと思ったが、心なしか着氷時体勢立て直しのため気色ばんでいるところに、禁じ手を見てしまった気がする。

選手たちが舞い終わりのポーズをとったその瞬間、それまで装われていた平静が破れ、堰を切ったように激しく呼吸をするときに、パフォーマンスの幕が下りたのだと感じさせられる。

サミュエル・ベケットの芝居の最後には、舞台上の役者どうし顔を見合わせるシーンが少なからず登場する(うろ覚え)。目と目を合わせることによって、役者としての身体が、一般のヒューマンに戻っていくような気がするのだが…。なぜだろう。演ずるとは、パフォーマンスとは、一体なんだろう。

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ハムレットが演劇についてあれこれ語るなかで、自然派であることをよしとする理念は、いわずもがなどこか能に通ずるところもあって、「洋の東西を問わず」とはこのことかと、なかなか不思議な気持ちにさせられる。

『ハムレット』3幕2場
「この科白は頼むから、僕がやってみせたように、舌を軽やかにそよがせて自然な調子で言ってもらいたい。[…]それから、こんなふうに、まるで手刀で空を切るみたいに、大仰な手振りをするのはごめんだ、万事控えめにやってもらいたい感情が高ぶって、いわば激流となり嵐となり旋風となったときこそ、抑制を身につけ、演技に滑らかな自然らしさを与えなければいけないのだから。」

『風姿花伝』第二物学条々
「物まねの品々、筆に尽くし難し。さりながら、この道の肝要なれば、その品々を、いかにもゝ嗜むべし。およそ、何事をも、残さず、よく似せんが本意なり。しかれども、また、事によりて、濃き、淡きを知るべし。」

どちらも心身合一を説いて、アクションとしての演技ではなくパフォーマンスとしての演技に繋がっていくように思う。高橋康也著『橋がかり ― 演劇的なるものをもとめて』を参考にした。ume