Text or Nothing -286ページ目

「なんで」という言葉

昨日のこと。目の前を歩く幼児が「なんでイケブクロにいくのぉ?」「なんでいったんいえかいる(侭)のぉ?」「なんでおばあちゃんちいくのぉ?」と「なんで」を連発して母親を質問攻めにしていた。

舌足らずの幼い子どもが「なんで」という言葉によって会話をつなぎながら、議論を展開しようともがいている! 本能に思わず感心した目

その母親の答えるところには、彼らは池袋へ行くわけでもなく、祖母宅に行くわけでもなかったらしい。一旦帰宅するのは本当で、ただただ大人の用事で沿線のあちらこちらに赴く予定のようだった。つき合わされ振り回される子どもには、いまいち大人の事情が摑めず、その非-理解ぶりが彼をして「なんで」という表現に駆り立てているのだと思う。

したがってその幼児にとって「なんで」のあとに続ける内容はなんでもよかったのだ。ただ、自分が聞き取った(つもりになっている)ことを「なんで」とつなげてお母さんに送り返しているのである。

未知のこと、理解不能なことを前にしたある種のパニック状態におかれた子どもも、たどたどしいながら「なんで」によってわだかまりを言語化すれば、なんとか(たとえはぐらかしであっても)別の手がかり、別のアプローチを与えられる。そんなふうにして人間の子どもの脳は理解可能の世界を広げていくのかもしれない。

フランス語で子どもは enfant 、英語でいうところの infant にあたり、ラテン語の infans話さない者」に由来する。その昔は言葉を話すことが一人前の人間の条件とみなされていたのだろう。だとすれば逆に、あらゆる言葉は子どもにとって(大人にとってもそうだと思うが…)滋養であるグッド! ちょうど神の言葉がキリスト教徒の日ごとの糧であるように。

そういうわたしは幼稚園の頃、母からの命令により「なんで」と「だって」と「だよ」が禁句だった。「だよ」は乱暴、「だって」は言い訳だから、「なんで」はある種の反抗で「はい」と言えない “悪い子の証拠” だからということで禁じられたのだと思う。ほかにもつかってはいけない言葉、話してはいけない話題が山ほどあった爆弾

禁句だらけの子ども時代はきつかった。母から言論統制されていたわたしは自由に喋らせてもらえないという理不尽な思いでいっぱいだった。それでも「なんで」「なぜ」「どうして」と聞くことができなかったので、黙っているのが良いことなのだと勘違いをしてしまった。よく人から「おとなしいお子さんですね」と言われて母は喜んでいたが、なんてことはない、沈黙はただの思考停止である叫び