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声の複数性

なぜは分たれるのだろう?

というのはその昔、祈りを節にのせて唱えたのが始まりだった。
そのうち一つの節では物足りなかったのか、異なる節を歌う者が現れる。
こうして一声から多声へと、声は厚みを増していった。

独白が一声ならば、対話は多声である。
対話においては、自分の考えを相手に照射することで、送り返されてきた自分の考えをよく知ることが可能となる。それほど、自分の考えはとらえどころがなく、たとえそれが単数であっても、複数の声によらなければ、なかなかとらえきれない。

自分探しへと向かった近代文学は、やがて言葉によって語りえない自分に取り残される。
「こんなわけで小説を書き始めた」という、始まりのための物語しか書くことができない。
だが、物語の終わりは書き手の現在にあらず、自己は不可能なループのなかにしかとらえられない。
書かれた「私」、それは自己の反復や反芻。

人が「私」と言うとき、「あなた」が想定されるものだ。(たとえばバンヴェニストやラカン)
「あなた」を経由した再帰的な「」としてしか存在できない。
この他者性はまた、一つの声に込められもし、声が声を追いかけ、話し手は聞き手となって自分の声を追いかけていく。

Nietzsche は次のように言う。「孤独者にしてみれば、(もし哲学者というのがきまって事始めに孤独者になるものならば、)哲学者のだれかひとりでも、かつて著書の中で自分の最終的な本当の意見を述べたことがあるとは考えにくい。まさしく本を書くとは、自身のうちに秘めていることを隠すために書くのではないだろうか。」(『善悪の彼岸』より)

「哲学というものはどれも、一つの哲学を隠すものでもある。あらゆる意見は何らかの隠し場であり、あらゆる言葉は何かしらの仮面である。」(前掲書)人が語ることには何かが隠されている。まったくもって同意したい。人は隠すことでしか表明できない。

ならばなぜ、もの書きはそれでも声の厚みによって書くのだろう。
一つの祈りはさまざまな節にのって、複数の声をとおして天へ届けられる。
声は不可逆的に複数化し、そうすることで一つの、そしてより高次のイメージへと引き上げられる…