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書くということ

書く」という言葉はいつまで生き残るのだろう。揚げ足を取るのではなしに、厳密には「メールを書く」と言うより「メールを打つ」のほうがふさわしい。つまり昨今「テキスト作成=書く」ではなくなりつつあるのだ。コンピュータの普及は、我々に新種の読み書きライフを与えたが、マシンの出現は読み書きのスタイル・形式のみならず、その根幹の意義と強度をも激しく揺さぶった。

紙という媒体が不要になりつつある。従来「書く」とは加筆・訂正・削除・入れ替えを紙上に記していくことを前提としていたから、テクストの移ろい行くさまは、その移ろい行く時間とともに紙面上に展開され、テクストの不完全な状態(推敲痕でぐしゃぐしゃの…)が可視化されていた。

が、ワードプロセッサの登場により事態は急変する。推敲にはコピペが大助かり。そして何より加筆訂正の痕跡が残らないのだから、いつでもそこに在るのは「最新テクスト」だけ。ドットの集合であるスクリーン上には、つねにほぼ公開可能な、客観視されたテクストが我々の前に瞬時に浮かび上がっていく。

デリダは次のように「外部の消失」を指摘する。「画面に表示された文字は可塑的で、流動的で、絶えず画面を流れ続け、物質性がほとんど失われている[…]。そして外部というものがもはや消滅するのです。この思弁的な省察の新たな経験に置いては、より多くの外部があると同時にもはや外部がないのです。自らを見ているつもりでいて、この外部と内部の渦巻きの中に巻き込まれ、歪んでしまった自己を見失うのです。」(ジャック・デリダパピエ・マシン』中山元訳より)

外部の消失による、内部と外部の極度な接近…。手書きの時代、書くことはある意味自己との対話であった。書かれて堆積して行くミミズたちは、自分の身体から離れたばかりの化身であり、書き手はそこに自己の内部を見、メタ言説さながら修正を加えて清書をした。が、今は最初から清書。メタ的行為もおしなべて一方通行の書記行為。対話にあらず。