Blanchot - 日記という庇護
言わずと知れたパッセージ「男もすなる日記と云ふものを…」 は、ウェブ隆盛の現代「皆もすなるブログと云ふものを…」に見事書き換えられる。「私も書いてみんとす」というミーハー心が、色褪せること無く媒体だけを変えて21世紀の風に旗めくこのごろ。
貫之は、彼の日記の冒頭がこれほど後世溺愛されるなどとはつゆと思わなかっただろう。
1000年経っても色褪せない魅力。「人間力」だろっか?
今日は日記を書く行為について、私の尊敬する思想家の言から引用。
MAURICE BLANCHOT (1907-2003)
Ecrire son journal intime, c'est se mettre momentanément sous la protection des jours communs, mettre l'écriture sous cette protection, et aussi se protéger de l'écriture en la soumettant à cette régularité heureuse qu'on s'engage à ne pas menacer. (Le Livre à venir, VIII)
個人的な日記を書くということは、
日記というありふれた事柄の庇護に一時的に身を寄せることであり、
エクリチュール自体をこの庇護のもとに置くことであるとともに、
脅かされないことを約束されている規則正しさという幸福にエクリチュールを従わせることによって、エクリチュールから身を守ることでもある。
たかが日記されど日記。けれど規則的にテクストを書き綴る行為は、書記行為のもつ計り知れない意義と役割を考えれば、やはり侮れない。一部の虫にも五分の魂なり。
日記・ブログを書く、これは個人の内部のいまだ形になっていない何かを、書記行為(エクリチュール)を通して護ってやることである。ここに働く庇護とは、凡庸性・普遍性による庇護(皆もやっているから)と、規則性・日常性による庇護(毎日書くというリズムにとりこまれるから)である。裏を返せば、書記行為自体をそうした凡庸性・普遍性および規則性・日常性に差し挟むことである。
とはいえ私の場合は、庇護や保護どころか…反古ばかりである。
貫之は、彼の日記の冒頭がこれほど後世溺愛されるなどとはつゆと思わなかっただろう。
1000年経っても色褪せない魅力。「人間力」だろっか?
今日は日記を書く行為について、私の尊敬する思想家の言から引用。
MAURICE BLANCHOT (1907-2003)
Ecrire son journal intime, c'est se mettre momentanément sous la protection des jours communs, mettre l'écriture sous cette protection, et aussi se protéger de l'écriture en la soumettant à cette régularité heureuse qu'on s'engage à ne pas menacer. (Le Livre à venir, VIII)
個人的な日記を書くということは、
日記というありふれた事柄の庇護に一時的に身を寄せることであり、
エクリチュール自体をこの庇護のもとに置くことであるとともに、
脅かされないことを約束されている規則正しさという幸福にエクリチュールを従わせることによって、エクリチュールから身を守ることでもある。
たかが日記されど日記。けれど規則的にテクストを書き綴る行為は、書記行為のもつ計り知れない意義と役割を考えれば、やはり侮れない。一部の虫にも五分の魂なり。
日記・ブログを書く、これは個人の内部のいまだ形になっていない何かを、書記行為(エクリチュール)を通して護ってやることである。ここに働く庇護とは、凡庸性・普遍性による庇護(皆もやっているから)と、規則性・日常性による庇護(毎日書くというリズムにとりこまれるから)である。裏を返せば、書記行為自体をそうした凡庸性・普遍性および規則性・日常性に差し挟むことである。
とはいえ私の場合は、庇護や保護どころか…反古ばかりである。