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記憶について - 『海辺のカフカ』より

『海辺のカフカ』を読むと、人生には実体がないように思えてくる。
記憶が私の人生を証言してみせはするけれど、人生は記憶の産物でしかない。
この一瞬一瞬も思い出としてしか把握できない。
現存在への確信など怪しい。思い出だけがよりどころ。

ナカタ「書くということが大事だったのですね?」
佐伯「はい。そのとおりです。書くということが大事だったのです。書いてしまったものには、その出来上がったかたちには、何の意味もありません」

佐伯「ずいぶん昔からあなたを知っているような気がするんです。あなたはあの絵の中にいませんでしたか?海辺の背景にいる人として」

ナカタ「サエキさん」
佐伯「はい」
ナカタ「ナカタにも少しだけわかります」
佐伯「何がですか?」
ナカタ「思い出というのが、どのようなものであるかがです。サエキさんの手を通して、ナカタにもそれは感じられます」
(村上春樹『海辺のカフカ』新潮文庫、2005、362-3)

同作品のもっとも深いテーマのひとつである「記憶」。
佐伯さんは「失われた時」を後日譚のように生きた。
図書館の階上の部屋で出来事を綴った。

来るべきときがやって来て、ナカタさんがその記憶を燃やす使命を引き受ける。
ナカタさんに原稿を託すと佐伯さんは他界。
原稿を星野青年と燃やし終えたところでナカタさんも息を引き取る。

佐伯「だってあなたはそこにいたのよ。そして私はそのとなりにいて、あなたを見ていた。ずっと昔、海辺で」
僕(=田村カフカ)は目を閉じる。僕は夏の浜辺にいる。[略]僕は彼女を愛している。彼女は僕を愛している。
それが記憶だ。
佐伯「あの絵をずっとあなたに持っていてもらいたいの」

佐伯「さようなら、田村カフカくん」
彼女は去っていく。[略]そこにはただ不在というかたちが、くぼみのように残されているだけだ。

そう、自身の記憶を持たない佐伯さんは、「不在」となる。
佐伯さんの記憶を少しわかると言ったナカタさんは、生きつづけるのをやめ、死につづける。

はかなさと重さの紙一重を感じずにいられない。思い出という、記憶のでっち上げを背負って生きるわれわれは、今生きていること自体の無意味さに絡めとられて気力を失うことがある。だが、人は死んだらなんにもならない。だからこそ生きることになにかがあるのだろう。逆説的にそう思う。