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建物をのこすということ

今年(2015年)の夏、日本は終戦70年の節目を迎える。昨日は広島原爆からちょうど70年。見覚えのある広島市長や米大使が今年もまた変わらずテレビに映しだされる。お決まりの儀式がとどこおりなくおこなわれているようだ。その一方で、戦争を経験した世代の高齢化がすすみ、原爆が投下された当時の記憶を語り継ぐ人が年々減ってきていることが懸念されているという。

広島へはある用事の折、おととしの冬に1泊2日で出向いた。せっかくだったので、帰りの正午の新幹線までの短い時間を使って、広電に乗り宮島まで足を伸ばした。だから昨日のニュースで原爆ドームが映し出されたときには、あ、これ広電から見たことがある、などとおととしの遠出を思い出した。臨場感と言っておこうか。親近感とまではいかないが、よりリアルな思いでニュースを見たわけだ。

そんな有名すぎる原爆ドームだが、昨日は特別にその内部の様子が放映された。ヘルメットを被ったニュースキャスターが、ぼろぼろに崩れたタイルだとか壁のかけらの上を歩き回ってリポートしていた。壊れたドーム内には本当に何もなかった。当時の広島の街はいかにして発展していたか、そんな街を一瞬で黒焦げにした原子爆弾はどれほどの破壊力だったか、といった解説を聞きながら、ひょっとすると原爆ドームは語り部になりうるのだろうかと、そんなことをふと考えた。

だがその後、ニュースの画面には高齢の被爆者が登場する。原爆投下直後の様子を生々しく語った。ドームよりも経験談のほうが饒舌だ。人々が手を伸ばした指先に、めくれた皮膚がだらんと垂れて、顔は2倍くらいに膨れ上がって、…… といった、聞いて痛み入る話だった。聞いているといたたまれなくなり、小学校のときに教科書や本で読まされた原爆投下後の話や写真をありありと思い出した。

人の痛みや死の深刻さを感じるとは、自分も大人になったものだとおどろきつつ、こんな考えがよぎった。原爆ドームを残すよりも、人がこんなにたくさん苦しみ亡くなったことを語り伝えるほうがよほど本質的ではないだろうか。建物を残すと、かえって人が傷つき命を落としたという事実が翳んでしまう。

広島の原爆ドームというと思い出すのだが、昨今東北で「震災遺構」を残そうという動きがあるそうだ。詳しいことは忘れたが、津波がどの高さまで押し寄せてきたかを示す痕跡を残していき、今後の防災意識の喚起に役立てようという考えなどがあると、今年3月のニュースで紹介されていたと思う。東日本大震災から4年を経た今、被災地で心配されているのが、記憶の風化なのだそうだ。

復興の遅々たる進み具合が懸念される中、記憶の風化がまた何よりも心配されているとは、相矛盾するように見えなくもないが、当事者たちでなければ分からない事情と感情とがあるのだろう。それに、震災の爪あとを心に刻み、よりいっそうの防災意識を高めていくのは、たしかに一つの取り組みとして意義があるはずだ。そういうのも温故知新の教えだろう。

だが解せないこともある。津波にさらされて骨組みだけになった庁舎を残そうという案があるというのだ。骨組みだけになった庁舎はあたかも原爆ドームさながらといった感じだ。震災当日その庁舎に勤めていた娘さんを亡くしたという方曰く、わが子の最期の場所だったこの建物を壊さないでほしいとのこと。この4年というもの悲しみに暮れる日々を送ってきたそうで、手記には今亡き娘さんへの語りかけがびっしりと綴られている。

遺族の思いははかりしれないが、果してこの津波の痕跡は必要なのか。新しい街をつくり、新しい歴史を築いていく局面にあって、壊れた庁舎の骨組みを残すとはいかに。それこそ、形骸化して骨組みだけになってしまった強迫観念が先行しているような気がするのだが。

人は亡き者を思い返すことで弔う。特にその方が亡くなった所を巡礼のように訪ねることで、記憶を永遠化するようなところがある。たしか、能というのも、亡き人や亡き人の思いを出現させる点で、そんな弔いの儀に通ずるものがあるんではなかったか。

話は飛ぶが、マルグリット・デュラスのどれも似たような小説には、ある過去の痛切な記憶を何度もたどる病んだヒロインが登場するが、彼女にとっては、その決定的な過去(たしか、破局とか婚約破棄だとかの話だったと思う。婚約を考えていた相手の男性がほかの女性と歩いているのを見てしまった瞬間とかが、何度も「意識の流れ」のような語りの中で再現される。)は、けっして忌まわしい記憶ではなく、なんどもなんども訪ねたくなる特権的な記憶なのだ。過去を葬るとは、繰り返し想起し追体験することで吸収し消化していくことなのだろう。分かるような気がする。

さて、建物としての遺構だが、震災や津波の物理的な規模を示すことはあっても、被害者や遺族の悲痛な思いがそれで報われるかというと、どうだろう。どうやら、「偶像崇拝反対派」VS「聖堂の絵や像は偶像ではなく、信者の想像力に訴えかけ信仰をはぐくむものだと主張するカトリック派」の対立みたいになってきてしまったが、いずれにしても、人がそこに生きたことや亡くなったことの重みは、遺構をのこすことでは示せない。それを思い出し共感する人間がいなくては始まらない。

もちろんいまさら原爆ドーム不要などと言うつもりは毛頭ない。あれはあれで、人類史最初の原爆投下の痕跡を示す貴重な史料である。だが、それ以上でもそれ以下でもない。「ドームを残していること=平和」ではない。その点、長崎平和祈念公園の北村星望作のブロンズ像は、平和を祈念してつくられたもので、メッセージ性を帯びているのはたしかだろう。

建物=メモリアルという発想に関して、最後にちょっと思うことがある。それは、2020年東京オリンピックのメーンスタジアムの建設に関することだ。森元首相のような五輪担当の(かなり高齢の)お役人は、莫大なお金を使って何か記念になるようなものをつくりたいと考えているようだが、モノを所有することに意義のある時代は終ったんですよと言いたい。少々しょぼいスタジアムでも、各国の選手の皆さんが正々堂々と力を発揮できる場であれば、それこそ意義があるんではないかと。

とはいうものの、ヨーロッパの各地に広がる巨石遺構なんかを見ると、人は大地に何かを立てることで、その存在を証しだてするのだなぁと実感しては、いにしえ人の存在を遠くに近くに感じたりするのも事実。
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