2011年ニューヨーク。「私はあの戦争で父にとりついた悪魔の正体を知りたい。」

海兵隊員だった父親の沖縄戦の様子を知りたいという作家デール・マハリッジ。

沖縄戦は20万人が死亡した。その半数が民間人だった。

デールの父は死ぬ間際に、声を絞って、沖縄戦の様子を話した。

デールは詳しく知りたくて、生きている海兵隊員を取材することにした。

その様子は、「英雄」ではなかった。デールは沖縄にも足を運んだ。

少年兵もいた。一般人も無差別に殺した米軍を今でも許せないと語る元少年兵。

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デールが居場所を捜しても会ってくれるまでは長い交渉が必要だった元海兵隊員。

テレビカメラが入るのも難しい。

ジョセフさん85歳。第6海兵師団のL中隊にいた。デールさんの父親も同じ隊にいた。

ジョセフさん「日本兵は女性や少年を洞窟に入れていたが、食料が無くなると追い出した。私達は手榴弾を入れて吹き飛ばした。」「自分は武器を持たない民間人を殺した。今もそのときのことを夢に見る。」

デールはジョセフさんの心の揺れに驚く。父もそうだったのだろうと。

デールの父はクリーブランドで生まれ育ち、17歳で海兵隊員になり、戦後は一時アルコール依存症になったがその後、鉄鋼会社で働いた。独立して工場を持ったが、地下室に篭って誰かに話しかけるようになった。父スティーブは「黙れ!黙れ!」と大声を出していたところを何度も目撃した。

そして死の間際に、デールに日本人の遺品を託した。

国旗や、手帳、民間人のものと思われるものも多数あった。これらの遺品の持ち主と父親はどうかかわったのか?

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デールは1990年ピューリッツアー賞を受賞。今回は取材で沖縄戦争と民間人のことを掘り下げることにした。

総勢240人で上陸したL中隊も、終結したときは僅か35人しか生き残っていなかった。

トム・プライスさん86歳「あくまでやられる前にやるためだ。夜中に赤ん坊の無く声がした。機関銃の音がしたが、翌朝、母親が打たれていた。赤ん坊はまだ生きていたが、助けることはしなかった。今はどうなっているかわからない。そうするより他無かったが、後悔する気持ちはずっと残っている。」

トムさんの妻「時々、ベッドで大きな声で叫んだり、母親の名前を読んだりするんです。」

L中隊の海兵隊の生き残りの人たちに共通点があった。だれも誇らしげに戦績を語ろうとしないことだった。

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2011年4月沖縄。66年前米軍が上陸した読谷海岸。

デールさんが訪問。都屋という地は何処かと土地の人に尋ねる。砂浜には紫色の花が咲いていた。そこに18万の米兵が上陸したのだ。

日本軍の狙いは少しでも長く本土決戦を遅くすること。

トムさん「不思議なことに銃声が聞こえなかった。」

フェルナンデスさん「日本兵はひとりも居なかった。楽々上陸できた。」

L中隊は北へと進軍した。20日足らずで沖縄北部を制圧。米軍には楽観論さえ出た。しかし激戦はこの後にあったのだ。

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デールさんは現在の工業高校を訪問。遺品の中にあった与那城実正さんを調べてもらう。戦争の始まる前に卒業していることがわかったが、沖縄戦では死亡していなかった。デールさんの父親が打ったということではないらしいことがわかった。

学校側は、与那城さんの手帳は中学生が引継ぎ、持っていたのではと推測。中学生も156名戦争で死亡した。少年兵として戦い命を落としたのである。

14歳の少年が兵士として戦ったことにショックを受けたデールさん。

父親がそういう彼らと戦ったのか、デールさんはさらに調査する。

トムさん「L中隊は南下を指示され、首里まで向かう。途中の丘に日本兵は隊を潜ませていた。

フェントンさんやジョセフさんはそのときの急に襲ってくる日本兵の恐怖を語る。1週間の間に10回も丘の支配権が変わる激戦となる。見えない敵との戦いで精神的に異常になっていく海兵隊員。

日本兵は首里を撤退し、さらに南下。日本側の兵士と民間人は密度が濃くなり、「ガマ」という洞窟に潜む。米軍側はガマに手榴弾を投げ込む。民間人もいることがわかっていながら。

デールさん、「ガマ」の中に入る。暗く長い。

「捕虜になったら殺される」と教えられた日本人は「ガマ」に留まった。

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L中隊は真栄里の掃討作戦を命じられる。追い詰められた日本兵は捨て身の「斬り込み」を敢行する。

少年兵だった金城さん82歳。当時は15歳だった。「お前は戦車に体当たりしろと言われた。軍人なら捕虜になるなといわれて死ぬ気でいた。」

伊那城さん「死ぬのは当たり前のこと。降伏なんて考えなかった。」

フェントンさんやトムさんは日本人が武器も持たずに突進してくるのが信じられなかったという。底知れぬ恐怖が民間人を打つことに躊躇を感じなくなっていった。

赤ん坊や女性を打ったと告白する元海兵隊員。

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デールさんはL中隊が戦火を交えた場所を訪れる。

生き残った隊員35名が撮影した場所だ。正規戦が終った後も、父の地獄は続いていたとデールさん。

当時14歳の元少年兵宮平さん82歳。「戦争には良い戦争も悪い戦争も無い。戦争は悪い。何故米軍は民間人を殺したのか、今でもそれを思い続けている。」

宮平さん「これが戦争だといえばそれまでですが、もう少し一般人を助けることができたんじゃないかと、米軍へのうらみつらみですが」

宮平さん「戦争はしてはいけない。戦争はやってしまったら取り返しがつかない。やるかやられるかしかない。アメリカの正義とは何だろう?」

デールさん「私にもその答えはわかりません。私達はその教訓を生かしていないのかも。あなたの怒りはわかります。」

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糸満市、ここで戦争はほとんど終結した。

小さな少年を打つことがどれほどの痛みを伴うのか。父はそれが長い間、恐怖に変わった。

帰還したときの父の顔はうつろで何かが失われていた。

取材した人は「英雄なんていない。」、私も父が英雄だなんて一度も思ったことはない。