三英雄。三国志しかり、三銃士しかり、日本の3人組は?というと・・・。

戦国武将毛利元就。3人の息子がいた。隆元・元春・隆景の3人。家族たちの意外な物語が今夜のテーマ。

団結の教訓状は溝を深めてしまった。そんなときに織田信長が攻めてくる。そして長男の死。家族とは。

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毛利博物館。そこに旗がある。将軍星といわれた三ツ星をかたどった。毛利家には3人の息子があり、元就は期待した。

元就は吉田で生まれた。郡山に城跡が残る。大内家と尼子家の挟まれた中国地方の小さな武家だった毛利家。

そこに希望の息子3人が生まれた。

長男隆元は、まじめで頑張るタイプ。次男元春は腕っ節が強く力ずくが得意。三男隆景は人を知略で動かすのが得意だった。

当時吉田近辺は、同じような力の武将がひしめき合っていた。

元就はライバルに養子を送り込んで、戦わずして領地を広げようとした。

元就はまず吉川家の内輪もめを利用。元就は吉川の家臣に土地を与えることで、取り込んでいった。吉川の部下たちは元就の次男を吉川の当主にすべきという勢いが大勢になり、元就は準備を慎重に進めて、ことが進むと一気に出る。

三男も小早川家に送り込んで小早川隆景となり、毛利は吉川・毛利・小早川となって勢力を広げた。

厳島の戦いでは、知略の三男が水軍との交渉に成功。武力に長けた元春は先頭を切って襲い掛かった。毛利一族は勢力を集めて巨大な敵に打ち勝った。

その勢いで大内家に討って出て、これも勝利した。

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三本の矢の教えの逸話は、後世の作り話か実際にあった話に尾ひれをつけたものとか言われているが、この手の話は世界各地にある。たとえ話としては非常にわかりやすいために、日本にもちょうどイソップ童話などが入ってきた時期で、それを元就が使ったのではないかといわれる。

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元就の三子教訓状。3m近い紙にびっしりと書かれている。

しかしこれがかえって息子たちの仲たがいを生むことになった。

元就は、長男の隆元が、芸術に興味を示すが戦にはあまり手腕を発揮していなかったことを危惧していた。

隆元は「弟たちに見限られているようだ。」と嘆いたいた。二人の弟はそれぞれの家の立場があり、吉田の毛利本家にのみ目を向けるわけにはいかなかったのだが・・・。

そこで元就は、教訓状をしたためたわけだ。一族安泰・長男を盛りたてよ!という希望は、くどいくどい内容になり、兄弟三人は辟易した。返事は長男からだけで、「了解しました。」のみ。さらに本家を大事に!という命令は弟たちには無視された。元就は残念に思い、弟二人にさらに手紙を送り、丁寧に「いかが思し召しでしょうか」と下手に出るが、返事がきたという記録は無い。

さらに長男と三男の溝が深まった。隆景は吉田に行くにはオカネもかかる。見返りに吉田に家を建てるよう依頼。そのころ次男は尼子家との戦いに忙殺されていたため、仲を取り持つこともできなかった。

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女たちはどうしていたか?元就の娘「五龍」は、元春の嫁と仲が良くなく、いがみあっていた。嫁と小姑の争いはいつの時代も変わらない。

元就は還暦を越えても元気だった。息子たちが不安で引退できないという面もあった。そこに不幸が襲う。

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元就は尼子との戦いに出陣していった。毛利家は厳島神社を厚く信仰していた。ここに隆元の願いが収められている。ところが長男隆元が先に死んでしまう。その息子の輝元が跡を継ぐ。74歳になった元就は15歳の輝元に後を託す。病がちになり寝込むことが多くなり、75歳で吉田で世を去った。一族の行く末に不安をいだきながら。

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その頃、織田信長が勢力を西に広げていた。

本家の輝元は心もとない。そこで隆景は輝元を厳しく仕込む。やがて輝元は立派な武将に育ち、毛利の総大将として信長と対決。吉川元春が前線で戦い、小早川隆景は海から攻めていった。毛利は一致団結して織田軍と戦い屈しなかった。戦いは本能寺の変まで続いた。

その力は西国大名として名をはせた。

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関が原の戦いで、当主は次の世代に代わり敗れたため、西国の辺境萩においやられたが、江戸時代を生き抜いて、明治維新でも大きな役割を果たした。

吉田町では三本の矢の逸話が歌舞伎として残され、現在にも伝えられている。

サッカーチームのサンフレッチェ広島は三本の矢を意図した。

400年の時を越えて今も受け継がれている。