先生が医師としてやってきたのは昭和24年のこと。静岡市清沢地区は茶畑が広がる地域。今はお年寄りが多い。先生の医院は看板が無く、大きな藤棚が目印だ。
秋山医院:診察時間は朝8時から午後5時まで、今年3月31日で閉じる。先生は秋山邦夫医師。診察は丁寧で手首だけでも3箇所とる。心臓・腎臓・肝臓の働きがこれでわかるという。先生は問診や触診を大切にしてきた。
しかし2年前から、聴診器の音も聞き取りにくくなってきたのが閉める理由だ。尿の検査も自分でやる。泌尿器系の病気がこれでわかる。診察にきていたおばあちゃんは「命の恩人だ」と語る。待合室は井戸端会議の場所。
先生は治療費の計算も全部自分でやっている。看護師さんもいない。
-----------------------------
午後は往診に出かける。病院に来れないお年寄りが増えているのだ。自動車を運転して、1回で数軒まわる。バスも通わない僻地にも出かける。93歳になる北澤たつさん。総合病院でも原因がはっきりせずに自宅療養となった。息子さん夫婦が看病しているが去年の秋から寝たきりになっている。
----------------------------
清沢では2軒に1軒が80歳以上の老人がいる。介護保険の申請の仕方も指導する。往診を終えて、お気に入りの高台に。晴れた日は駿河湾まで見えるという。
-----------------------------
27歳まで駅前の大きな病院に勤務していた。清沢に来たのは前の医師に声をかけられたから。昭和24年、往診は軍から支給された帽子をかぶり、何キロもある山道を通った。翌年広子さんと結婚。広子さんは看護師の資格を取り、2人三脚でやってきた。
先生の二人の息子さんは独立していて、10年前に妻の広子さんを亡くしてからは一人暮らし。
引越しの準備をしているが、妻が亡くなってから開けていない箱もある。
唯一の趣味が写真。撮りためたスナップはアルバムにして何箱にもなる。
清沢の歴史がアルバムに残されている。先生が赴任した頃は林業で生計をたてていたが、昭和30年代からお茶畑が増えていった。
先生は自分の撮った写真をどうしようかと思案。清沢の方々にあげて欲しいと近くの杉山さんに頼んだ。杉山さんは1軒1軒関係のありそうな人を訪問し、アルバムを見てもらう。富田さん69歳、父の鍛冶屋さん時代の様子が撮影されていて、感激する。
----------------------------
清沢では20年前からお茶農家が減ってきている。後継者不足と中国などからの安いお茶の輸入が原因だ。
先生が撮影したお茶が最盛期だった頃の写真、肩こりなどで病院に来る人が増えた時期だ。先生は針治療も取り入れた。
先生は独自の体操も考案して、坂道の多いこの地区での足腰の鍛錬を指導。
----------------------------
北澤たつさんの臨終の場に立ち会う。自宅での静かな死だった。
----------------------------
先生は規則正しい生活だ。朝は7時に起きて、とうふとわかめの味噌汁。仏前に食事をそなえてから、一緒に朝ごはん。味噌汁とパンの取り合わせ。
しっかりと噛んで食べる。そして8時から医院を開ける。もう患者さんが待っている。昔、傷を縫合してもらったというおばあさん。昔は1日50人以上も診察した。先生は里山のホームドクターだ。学校医もかねているため、世話にならなかった人はいない。
昔は、葬式も結婚式もめいめいの家で行なった。先生のスナップ写真に残る。
----------------------------
梶山キクさん91歳を往診。この日は体調が悪いようだ。息子の洋一郎さん68歳が面倒を見ている。キクさんが働く若い姿も写真に撮られていた。
今年も山のそこここに桜の花が咲く頃。村人たちが医院にも、外にも溢れていた。みな礼を言いたくて訪れている。先生との想いでは、そのまま家族との思い出に繋がる。
「先生がいなくなるんなら、あの世行ったほうがいい」とまで語る人もいた。
先生は紹介状を書いて、診察もあと数人で終わる。
気にかけていた独居老人の林ミテさん93歳。体操をして、減塩の料理を守っている。ミテさんの足が弱ってきているのが気がかりだ。なかなか止めるのを切り出せないでいたが、最後には打ち明ける。ミテさんは「先生もおだいじに」と見送る。
----------------------------
先生はお酒を口にしない。緊急の要請に応じるためだ。
そして夜は最新の医学文献を読む。
2年前に老人性の難聴と診断されてからは、行政にも診療所をつくるよう働きかけてきた。
そして3月31日、診療所から長年使ってきた医療機器を処分。
そこにも診察に訪れる人がきて急遽診察。そしてガラーンとした部屋に電話の音が響く。戸締りをする先生。もう開くことは無い。
それから8日目、先生は引越し先に移る日だ。地区の人たちが大勢見送りに並んだ。一人ひとりと握手して別れる。
乗り込んだ車の助手席には妻の広子さんの遺影。静かに車は動き出し、街へと向かった。
清沢地区に医師がいなくなった。
半月がたち、新茶の取り入れも始まる頃、先生のアルバムは清沢小学校にあり、地域の社会・歴史の勉強に教材として使われている。
昔の子供たちの遊びに興味津々だ。1000枚の写真は暖かな心のつながりを映し出す。
先生が去った診療所では、今年も藤棚に白いつぼみが・・、もうすぐ花が咲き始める。