多くの規制があった江戸時代。壁を越えようとした挑戦者達。
伊能忠敬・移動の壁
間宮林蔵・鎖国の壁
ジョン万次郎・幕府の壁
今夜は時代の枠組みを越えて、江戸の世に挑んだ男を紹介。
伊能:1821年7月10日・・・地図献上の日
間宮:1811年3月・・・報告書を提出した日。
ジョン万次郎:日米和親条約締結の日
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その1、伊能忠敬。婿養子として造り酒屋で働き、1794年家督を譲ってから50代で江戸にあがり、天文方暦局で勉強に励み、学者を目指した。寝る間も惜しみ学問に精を出した。
当時、地球が丸いことはわかっていたが、地球の大きさがわからなかった。伊能忠敬は緯度の1度の違いから360度を換算して大きさを計算した。しかし深川と江戸の1度の差では?という周囲の声で、忠敬は江戸と蝦夷で計測しようとする。
藩を越えなければならず、忠敬は幕府の許可を得るため、地図を作ることを名目にした。この作業が根気の要る作業で、距離を歩数で測り、方位磁石で方角を計測して、56歳で開始「御用」の旗を掲げて邪魔されることなく3年半をかけて測量した。距離9000kmに及ぶ。江戸に戻ると、緯度1度は111kmと計算。地球の大きさを推測した。今との誤差はきわめて少ない。
地図を献上したところ幕府は西側の地図製作をも任された。中国四国を終えて九州に入った頃は65歳になっていた。70歳を越えて江戸に戻った後は地図としてまとめる力は残っておらず74歳で死去。
伊能忠敬の地図は以後100年も活用されることになった。
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1808年間宮林蔵は樺太を歩いていた。当時樺太は島なのか陸続きなのか様子がわかっていなかった。驚きの連続で、トナカイなどの動物や、子育てなどの方法を記録している。そして樺太が島であることが判明、より確かにするために、いったん報告書を提出したが、再び見極めのために再調査をと嘆願し、7月13日に再び上陸。しかし厳しい冬で凍傷になり、それでもくじけず、翌年の5月に船を入手し、北上。ついに間宮は樺太が島であることをその目で確かめた。またロシアは樺太に及んでいないと報告したが、幕府は「デレン」という役所が、ロシアのものではないかと調査を命じられ、1809年、9月に間宮は海峡を越えて大陸にたどり着いた。
そこの民族サンタン人は間宮を捕えたが、通訳に助けられる。そしてデレンに到着し、交易の街デレンの様子を調べる。役所には中国人(清)がいて、ロシアの力は及んでいなかった。
1811年3月、報告書を提出。これによって幕府は北方の防衛策をたてた。
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土佐の漁師。遭難しアメリカの船に助けられて海を渡った。
マサチューセッツ州フェアヘブンの小学校、1843年春17歳の万次郎はアルファベットから学習する。
鯨の油を取るために、捕鯨船に乗り込んだのが20歳のとき。
ジョン万「なぜ日本人は船から落ちた人を助けないのか?」と詰問された。しだいに鎖国に疑問を抱いていった。
万次郎は捕鯨船に乗り込んで3年たったところで日本への帰国を決意し、1851年25歳のときに日本に戻った。
待っていたのは厳しい詮議。鎖国の罪で捕らえられ、持ち込んだ書物は没収。9ヶ月におよぶ詮議の後、土佐に返されたが蟄居を命じられる。
ところがその翌年、ペリーの黒船来航。要求には「開港せよ!と通商をせよ!」というものもあった。この交渉に万次郎は幕府に呼ばれて、通訳することになった。
万次郎は鎖国のもつ閉鎖性を指摘。幕府に取り入れられるが、徳川斉昭の横槍ではずされた。しかし林はアメリカの要求を断れば戦になるのではと恐れ万次郎にもろもろを尋ねる。
こうして交渉が始まり。開港の要求を受け入れ、通商の話は拒否。こうして日米和親条約が交わされた。
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赤坂源空寺には伊能忠敬の墓がある。「好きな学問に携わることの喜びが原動力。」
北海道稚内には間宮林蔵の銅像がある。「命を捨ててもなさねばならぬことがある。」
フェアヘブンでは高知の人を招いて万次郎フェスティバルが開かれる。「この世界には人間の善意があることを信じています。」