木造校舎の15歳  昭和30年代前半の中学生群像を描いています。山口の農村地帯の長閑な中学時代です
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木造校舎の15歳  学校林

町には、それぞれ集落所有の山と学校林があります。学校林は、小学校は保護者が手入れに行きますが 中学からは生徒がします。その山は町でもはずれ、奥深い行き止まりのような所にあります。学校からは 歩いて1時間近くかかります。春と秋、2回あったような気がします。お弁当と水筒持って一日がかりです。

山へ行く前日、皆んなでブウブウ文句言っていました。


「オイ! おまえら、俺の事を考えてくれっちゃぁ-- 俺なんか目の前に山があるそに、いっぺんわざわざ 学校まで行かんにゃぁ--いけんそぞぉ-- ほいでから疲れちょるのに、また学校まで戻っちょてから、ほいからまた家まで帰らんにゃぁ--いけんっちゃぁ-- 2回も行ったり来たりせんにゃぁ--いけんっちゃがぁ-- はぁ-- もう-- えろうて、えろうて(疲れて)...」 G君が今日から疲れたような言い方で口をとがらして言っています。それにはみんな黙ってしまいます。確かに G君の家も町の一番奥深い所で、学校林とは目と鼻の先、5分とはかからないのです。学校の通学圏としても遠い地区に入ります。学校も随分融通が利かなかったなあ-- と思います。でもそんな時代でした。とにかく厳格な規則にがんじがらめでしたから...


「そりゃぁ-そうかもしれんけど、うちなんてどうするのよ。学校までだっていい加減遠いのに、ほいじゃけぇ-自転車なのに、学校から今度は歩いてあそこまで行くそよ。帰る時はどうするのよ。おんなじっちゃぁ-」と、こっちももう町境の女の子が抗議します。「それそれ、うちらだっておんなじぃ-ねぇ-。自転車に乗っても無理じゃけぇ-帰りは押してから登る所もあるそよ。行きとうないそもえらいそもおんなじっちゃぁ-」、とこっちは山越えして来る女の子。要するにみんな嫌なのです。でも、普段鎌など持ったこともなく、まして山など行った事のない生徒も全員参加です。考えたら学校林のために鎌を用意した級友がいたかも解りません。それでもなんでもとにかく逃げ出す訳にはいかず、当日手入れをしに行きました...


山の手入れはかなりきつい作業です。慣れている大人でも、斜面を上から降りながら下草を刈り、木の下枝を払って行く作業は危険でもあり、決して楽ではありません。地面は、前に刈り取ったり払った下枝でフカフカというか、しっかりしていなくて、足元が悪いのです。雨上りだとうっかりするとズルズル--、っと滑ってしまいます。足に力を入れて ちゃんと 踏ん張らなくては危ないのです。まして1年の時には初めてのものが殆どですから、そりゃぁ-大変です。作業だってはかどる訳もありません。教師にハッパ掛けられながら、文句いいながらそれでもみんな頑張りました。人数が多いですから、物量作戦。なんだかんだいいながらも、少しずつでも片付いていきます。


お昼休みにはお弁当食べると、みんな 「ああ えらいっちゃぁ-- 未だ昼からもせんにゃぁ--いけんそかいねぇ--」 と、ひくっり返ってぼやきます。空は青く小鳥も鳴いて長閑な光景なのに、ああ、なして、こねぇえらい事をせんにゃぁ--いけんそかいねぇ--...と。お昼休みが終るとまた仕事が始まります。午後も3時頃やっと終ります。それから整列して点呼、重い足を引きずるようにして学校まで戻ります。HRがあってやっと解散。私は学校から歩いても大した距離ではありませんが、遠くの人はほんとに疲れ果てたでしょう。翌日筋肉痛になったのかどうか、もう記憶の底をまさぐっても出て来ません...


あれから40年以上経ちました。町中の山が荒れ果て、鹿が我が物顔に木を食い荒して、山の道、獣道とか兔道と言われた小道ももよく解らない状態とか... でも山の木は大きく育ったでしょう。大きくなったら木を売って学校の用具を買うとか、校舎の新築に使うとか言わていました。校舎はかなり前に新築されました。勿論鉄筋コンクリ-トですから学校林の木を使ったなんて話聞いていません。材木を売ったという話もとんと耳にはしていません。考えてみると、学校林の話は一度も聞いた事がありません。一体今はどうなっているのでしょうか...やっぱり荒れたままに放置されているのでしょうか...

木造校舎の15歳  運動会 Ⅲ 騎馬戦

男子の団体種目の中で、「騎馬戦」は力強く、勇壮で、スリルに充ちた団体競技です!元気盛りの男の子達は、エネルギ-を爆発させて、ぶつかりあいます! ただむやみにぶつかっても 勝てませんので、そこはやはり知恵比べにもなります。

先ず、四人の気持ちがしっかりと合って、初めて作戦が効果を表します。上に乗る子は、小さくて軽い子が有利ですが、ただそれだけでは上手くいきません。気が弱くては直ぐに帽子を取られてしまいます! どちらかというと向う意気の強い、頭の回転が早い子が向いています。指揮官でもあり、身のこなしの早さも求められます。何組かで組んで、正に団体戦の本領が発揮出来れば、これはもう絶対有利! 逃げながら相手をやっつけられます! 見ている方も、ハラハラ! ドキドキ! スリル満点! 観客と一体化して楽しめる種目です!

「なあ--おいっちゃぁ- 今年はどねえしようかっちゃなぁ--」 「そうじゃのぉ-- どこが 強そうかのぉ--」 「赤にゃぁ--せぇが高いんが多いんじゃないかぁ--」 「そねぇかもしれんのぉ-」 「今年は、未だよう解らんっちゃぁ--」 「ほしたら、やっぱり、6つぐらいに分れて戦うかぁ--」 「そねぇ--してみようかのぉ--」 休み時間には、あっちこっちに集って、ごちゃごちゃと相談します。女子を入れてくれる色もあれば、N君のように「女は、うるそうてダメ!っちゃぁ--」と、全く相手にしてもらえないところもあります。

運動会当日、さあ--いよいよ出陣です! 「ウオゥ!!!」 戦場に切り込む武士のような雄叫びを上げて、かかっていきます。逃げ惑う組 勢い余って、早々と崩れる者達、輪を外れて、先ず戦況観察を、と、賢い戦法を取る組。しかし、大体はそこ、ここで、必死に組み合って戦っています。観ている方も「キャァ--! うしろ、うしろ!」などと、声を出して、必死に応援です。

ドンドン戦う組が減っていきます! ある程度経った頃、「ドン!」 という鉄砲の音で、戦いが終了!! 残った組を数えて、勝った色の旗が、サッと上がります。「バンザアイ! バンザアイ!」 割れるような拍手の中、勝ち誇った男の子達の歓声が、秋空に木霊します!

木造校舎の15歳  運動会 Ⅱ 応援

秋のお彼岸の頃運動会が有ります。ちょうど 台風シ-ズンと長雨の頃で雨がつきもの。上がっても、田んぼを埋めて造った運動場は、直ぐに田んぼに戻り、田植え状態で競技をする事に。3年間で、快晴に恵まれた記憶はないような気がします...

運動会の呼び物の一つに応援があります。色分けは紅白青黄の四色で、一年の時の色分けが3年間続きます。そうする事で色への愛着も湧き、対抗意識も育ってきます。応援にも熱が入り、頑張れます。

応援は応援歌もあり、三三七七拍子とか、山鹿流陣太鼓の打ち方とかに似せた演技と、それに合わせる拍手があり、練習が続きます。応援歌の歌詞は、鉄筆でガリ版を切り、謄写版印刷して配ります。曲は先輩からの口移しです。演技は応援団になった人が、記憶を頼りに思い出し、それを工夫する事もあります。

3年になった時、3組には同じ白組のものが多く、「ねえ--ハ-さん、応援団長やりっちゃぃねぇ-- ええわぁ-ねぇ-- ほいでから、応援歌も創っちゃったらええがぁ--」と、あっけなく決まりました。
 
前の年、青組でその頃人気の 「赤胴鈴の助」 の主題歌に、歌詞をつけた応援歌が新しく出来ました。寮歌や軍歌が殆どの応援歌の中で、それはとても新鮮で、人気を博しました! それは、クラブの先輩の女子の作詞です。彼女には対抗意識もあり、引き受ける事にしました。

片方が元気がいい曲なので、いろいろ考え「白虎隊」を歌った曲にしました。そのレコ-ドは、 小学校にあり、無理を言って、担任であった先生からお借りしました。テ-プなどない時代、とにかくすり切れるほど聞いて、覚えます。勿論、応援団員全員です!
 
2学期気が始って直ぐ、「ねえぇ-これで えじゃろうかあ--」 「うん、そうじゃねぇ-ここんとこ、もうちょっと頑張っちゃる!、って感じがええかねぇ--」 「そうじゃねぇ- ほしたらこれじぁ- どねえかねぇ?」 「ふん、ええわねぇ--」。やっと出来上がりです!

その時期、応援の練習は運動部の練習よりも優先し、講堂・運動場・特別教室などで、それぞれ秘密に行います。それも作戦の内です。

「オイ! どねぇっちゃぁ--よう-いきよるかぁ--」 「フン! 知らんよ! 聞いても教えんけえねぇ--!」 「ほいじゃけど、ちょっびっとぐらい言うても、ええじゃろうがぁ--」 「ダメ!」 
そんなやり取りがあちこちであり、いつもは仲のいいクラスも、何となく怪しげになります。3年は最後なので、みんな何とか注目を集めたく、他の色の様子が気になるのです。

さて、いよいよ当日。応援はお昼休みの前か、終って直ぐに披露されます。
リ-ダ-達は、色と同じモスリンの幅広のたすきとハチマキを派手に締め、気合を入れ演技します。拍手は、段々早くなりますので、ゆっくり、ゆっくり...と、心に唱え続けながら演技を披露します。色が目立たない白は、動作を余計大きくします。

歌が始った時、広い運動場が、一瞬、し--ん となりました。聞き入っているのが伝わってきます! 緊張が走り、声が上ずってきます! どうしよう...と、思う間もなく終わってしまいました...その瞬間、割れるような拍手!

「やったあ!!!」 抱き合い、躍り上がって、狂喜乱舞♪♪♪! なんともいえない充足感に包まれました! みんなも、キャァ-キャァ-! ワァ--ワァ--!!! 中には泣き出す人もいます。男子も「オオ!!!」と、雄叫びのような声を上げます。

運動会の後で、仲良しのお母さんに「いい歌詞だったわよ!」と、声をかけてもらいました。でも、今思うと、曲も哀しげで、歌詞もどちらかというと、暗く悲しげ。どう考えても、応援歌にはふさわしくありません。一体、どうして、そんな歌を考えたのか、割れながら不思議な気がします...

そんな事もすっかり忘れた頃、夏休みに帰ったら10歳違いの妹が、その歌を歌っているのです! しかし、曲は、その頃流行りのものに替っていました。
驚いて、「ねえ-それ、何の歌?」と、聞く私に「うん、運動会の応援歌よ」 「へえ--未だ歌ってるんだぁ--それ、お姉ちゃんが作ったのよぉ-」 「え!!! うそぉ--ほんとなの? 妹もびっくり! 「曲は 違うけどね」 「うん。難しいから替えちゃった、と、言いよっちゃたよ。じゃぁ-ほんとに、大きい姉ちゃんが、作ったんだぁ--」
嬉しいような 面映いような...

生徒も減って、色も4つはなくなった今、応援歌は、一体、どうなったのでしょうか...  

木造校舎の15歳  運動会 Ⅰ フォ-クダンス

運動会の楽しみの一つに、フォ-クダンスがあります。全校生徒が、広い運動場一杯に輪になって踊ります。曲は、なぜか決って「オクラホマミキサー」 

ちょうど異性に芽生える頃、全生徒憧れの的のような男子もいます。私にもそんな人がいました。彼と踊る時、嬉しくて、胸がドキドキします! ほんの何十秒もない瞬間の出来事ですが、あの時の手に浮かんだ汗まで、生々しく甦ります。彼が次、という時、曲が終り、練習がそれで終りの場合のガッカリした気持ち...思わず、溜息がでてしまいます。

「オイ! 小指を1本出せっちゃぁ--」 いきなり後から声がして、「え!」と、振り向く間もなく「はよう せいっちゃぁ--」と、催促の声。N君です。いくら仲が悪い、と言っても、余りにもひどい言い方。私も意地になって「フン!」と、小指を出します。

「ねぇねぇ-聞いてっちゃぁ--今日ねェ-○○さんと踊たっんよぉ-この手を握っちゃったんよぉ--」 「ええねぇ--うちゃぁ-運が悪いけェ- いっこも回って来んそよぉ--」 「うちもよぉ--あれっちゃぁ--いっつも同じところから始るけぇ--踊れる人は何回でも踊れるけど、うちゃぁ来やぁ-せんっちゃぁ--ずるいっちゃぁ--」「そうっちゃぁ--ずるいっちゃぁ--」
ダンスの後は、女の子はいつもわぁ-わぁ-大騒ぎします。男子は「うるさいっちゃぁ--」と、冷ややかに眺めています。でも、そうやって騒ぐのは2年までで、相手は先輩です。

3年になると同級生になりますので、そんなに明らさまに、好きな相手の名前を口に出来ません。もし、いたとしても、それは、そっと胸にしまっておきます。 

「もう、イヤになるっちゃぁ--なしてか○○と2回もよぉ--」 「ほんとかいねえ--あんたも ついちょらんねぇ-」「そうそう、○○だけとはイヤっちゃぁねぇ--」。今度は踊りたくない相手をぼやき合います。
好き嫌いは好みの問題ですが、変にイヤらしい態度をとる男子がいます。手をギュッと握ったり、なれなれしく体をくっつけてきたりします。そういう男子は「H!」と、情報回して、要注意人物に指定?します。

「ねぇ、Nって、小指出せ!って、言うそよぉ--もう、ひどいちゃっぁねぇ--」 「ほんとっちゃいねぇ-ほいじゃけど、その小指、いいっちゃぁ--イヤな人にゃぁ、今度からそねえしようっちゃぁ--」 「ほんとじゃねぇ--うちもそねえ-しようちゃぁ-」。かくして小指1本が大流行り!

幼い恋心と、懐かしい「オクラホマミキサ-」の曲、運動会の季節です♪~

木造校舎の15歳  6  修学旅行  その4

長崎県を回って熊本に行きました。熊本城は初めて見るお城です。山口には今でもお城は一つもありません。お堀を隔てて石垣を組み上げ、その上に建つお城。天守閣がどっしりとして、ふと、時を忘れて戦国時代にタイムスリットした感じがします。高いビルなどない頃です、仰ぎ見るとはこんな事をいうのかなぁ-と、じっと見上げました。

お城の中も細くて急な階段登って見学しました。天守閣からの眺めといっても、小さな窓からです。どんな景色が広がっていたのか、すっかり忘れてしまいました。ただ、なんとも殺風景で簡素な作りだなぁ-という事だけが、強烈な印象として残りました。武士の生活ってそんなものだったのかなぁ-と、感心しました。

水前寺公園へも行きましたが、中学生の私には「雪舟の庭」がもっと大きい感じ、という印象で、日本庭園の美しさは未だ理解出来ませんでした。ただぞろぞろガイドさんの後をついて回りました...

そこから阿蘇の草千里をバスでグルグル回って、火口近くまで行きました。どこまで行っても緑の草原が続く光景は、初めて見る景色です。

「わぁ--広いっちゃぁ-ねェ-!」「ほんとほんと!どこまで行っても緑っちゃぁ-ねぇ-」「どの位広いんかねぇ-」「わぁ-見て見て、馬がおるっちゃぁ-」「どこ、どこ?!」女の子達は窓から身を乗り出す様にして、探します。「ほら、あそこっちゃぁ-! きゃぁ-草を食べよるよぉ-」と、当り前の事でも大騒ぎです!

いよいよ火口に着いて、説明を受けました。ちょっと身を乗り出すと、底に吸い込まれそうです。自殺者がいるというお話も失敗した時のお話も聞きました。ゾッとするような恐怖に襲われました。その話の後でもう一度火口を見る勇気は、とてもありませんでした。細いけれど白い噴煙を上げている活火山を見るのも初めての経験です。

「恐ろしかったねェ--」「ほんとっちゃぁ-、うちゃぁ-よう下は見られんかったちゃぁ-」「ほんとっちゃねぇ-ようあねぇ-な所に飛び込めるっちゃぁ-」「それそれ!うちじゃったらその前に気を失うっちゃぁ-」「そうじゃねぇ-...」およそ自殺などとは程遠い田舎の中学生、ただキャァ-キャァ-と、騒いでいます。

熊本に一泊して、翌日はひたすらにバスは走ります。未だ舗装さえしてない道路もあり、時折激しく飛び上がったりもします。ほんとに田舎のデコボコ道を数時間。車内では歌を歌ったり、いつものようにバカバカしいお笑いが出たり、疲れた人は眠りこけていたり...

大騒ぎした修学旅行も無事に終わりました。

木造校舎の15歳  6  修学旅行  その3

「わぁ-! あれが真知子岩ちゃぁ-!なんかロマンチックちゃぁ-」「ほんとちゃぁ-!うちも大人になったらあねぇ-な恋をしてみたいちゃぁ-」「なにょぅ-いいよるそ、あんたにゃぁ-無理っちゃぁ-、鏡見てみぃねぇ-」「ふん!大人になったら解りゃぁ-せんけぇ-ねぇ-」

そろそろ幼い恋を知り始めた、思春期真っ盛りの年頃、当時人気のあった「君の名」に憧れるのも無理からぬ話。雲仙地獄巡りは、この「真知子岩」で盛り上がりっぱなし。カメラを持ってらした先生の後をゾロゾロついて歩きました。運が良ければその岩で撮ってもらえるかも、という期待があって...へへぇ、実は私は撮ってもらいました☆
この旅行中の写真では、後で少々騒ぎが起きます。

足が速くて、スラリとした女の子が、他のクラスにいました。顔もちょっと大人びています。その子を、うちの担任の先生がその真知子岩で撮られました。彼女の写真は、遠足の時にも撮られた事があり、その時にもちょっとした騒動が...とにかく彼女は絵になります。

「ねぇ-なしてからYちゃんなそぉ-おかしいちゃぁ-」「それっちゃぁ-。大体隣りのクラスじゃろうがぁ-」「それそれ! ほいじゃけど、撮ってもらう方も撮ってもらう方っちゃぁ-あつかましいっちゃぁ-ねぇ-」「それっちゃぁ-ねぇ-うちだって撮ってもらいたかったそにぃ-よぅ-いえんじゃったんよぉ-もう!...」「先生もひどいっちゃぁ-他所のクラスの子を撮るんじゃったら、うちのクラスの子をまとめて撮ってくれっちゃってもよかろうそぃねぇ-」「それっちゃぁ-ねぇ-」

もうそのうるさいこと、うるさいこと、みんな気持ちがおさまらないので、わぁ-わぁ-キャァ-キャァ-大騒ぎです。でも私は撮ってもらっているので、なんとも複雑な気持ちです。彼女の事については、遠足の時の写真でも担任と言い争っています。担任の好みではなさそうなのに、なぜか写真となると彼女なのです...

雲仙の地獄巡りは、湯気が噴出している岩場を歩くのです。ズックとはいえ、歩き辛いです。それに別府の地獄巡りと違って、見るべきものはありません。別府の印象が強かっただけに、あまり面白くなく、みんな「なしてからこねぇ-な所を歩かんにゃぁ-いけんそぉ-」と、ブツブツ文句いいながら歩きました...

明日はいよいよ阿蘇山です。


木造校舎の15歳  6  修学旅行  その2

宿泊予定の雲仙に向います。海岸線の絶壁のような細い道をクネクネと回りながら行きます。下の方に集落が見えた時、「小浜」という説明がありました。寂れた漁村という印象でした。雲仙ゴルフ場が見えた時には、広々とした芝生にみんな驚きの声を上げました!

宿について先ず真っ先にする事は、持って来たお米を集める事です。クラスの委員が、名簿とチエックしながら集めます。未だお米の配給制度が厳しい時代でした。確か一泊1合だった様な気がします。わぁ-わぁ-言いながらも、無事に終りました。それからお風呂に入ります。

田舎では銭湯はありません。みんな自分の家のお風呂です。だから大勢でお風呂に入るというのは、女の子達には一大事です。胸もふくらみ、生理が始っている生徒もいますから、皆んなモジモジです。でも、時間が決まっていますから、とにかく入らなくてはいけません。

「そねぇ-隠したって、あんたぁ-湯船の中は隠せやせんそよぉ--」といいながら、自分も胸を隠しています。チラッ、と横目で級友の胸を見て、「キャァ-案外大きいそやねぇ-」と、叫ぶ子、言われて顔を真っ赤にしながら、「しらんっちゃぁ-!」と、怒る子。もう、わぁ-わぁ-キャァ-キャァお風呂場は大騒ぎです。

お風呂から上がると、広い宴会場のような部屋で、200名以上の生徒が食事をします。引率の教師も一緒です。勿論、その時には教師たちもアルコ-ルはなしです。今に比べれば貧しいオカズだったと思います。それでも田舎育ちの私達には大変なご馳走です。

「ねぇ-これちゃぁ-なんじゃろうかいねぇ-」「ふ--ん、なんじゃろうかいね、食べた事がないっちゃぁ-ねぇ-」「ちょっと、こりゃぁ-変わった切り方がしちゃるね。やっぱ旅館は違うね」「ほいじゃけど魚は家の方が美味しい気がせん?」「そねぇ-言われりゃぁ-そねぇな気がするっちゃねぁ-」「ほんと、ほんと、魚は絶対家の方が美味しいっちゃぁ-」。ここでも女の子達はうるさい限りです。美味しいお米を持って来たのに、ご飯のまずさはありません。あれはインチキだと、今でも思っています。

食事が終ると数人ずつの部屋に分かれます。これがまた問題です。仲良しが離れ離れになると、何時の間にか部屋の交換をしています。勿論、それは違反です。点検、見回りの時にばれたらバツです。仕方がないので、消灯時間が来て、教師の見回りが終るまでは、元の部屋にいます。足音が消えると、こっそりと周囲を見回して、布団引きずって移動します。なぜか、私の部屋は交換ではなく、どこか一つの部屋に集った様です。気がついたら、部屋には3.4人しかいなくて、部屋が広々としていました。私は寝付きが悪く、ましてお布団が変わると、眠れません。いつまでも寝返りばかりうっていました...

木造校舎の15歳  6  修学旅行  その1

月になると修学旅行です。多分これは中学時代で一番の行事でしょう。私達の頃は九州半周、2泊3日のバス旅行です。熊本・水前寺公園、阿蘇山、長崎・市内観光、雲仙のコ-スです。

家族旅行など殆どしない時代、旅行といえば修学旅行が全てと言ってもいいのですから、大騒ぎです。旅行委員会が出来て、しおりを作ったり、希望を集めたりしました。旅行というのは、今もそうですが、準備をする時、指折り数えて待つ時も、ずっと楽しいものです。

「ねぇ-寝巻きっちゃぁ-どうねぇ-するっちゃぁ-...」「あんねぇ-、○○にええズックがあるっちゅぅ話よ」「わぁ-ほんとっちゃぁ-!見に行かんにゃぁ-」「売れ切れんそかいねぇ-」「知らんちゃぁ-、ほいじゃけぇ-早よぅ-こうてもらわんにゃぁ-いけんちゃぁ-ねぇ-」と、寄るとさわると、ワァ-ワァ-と話しては騒いでいます。

昭和も半ばになり、テレビが一般家庭に普及し始めていました。世の中も少しずつ豊かになり始めた頃でした。修学旅行には新しいズックが履けるようになっていました。丁度その頃、今のスニ-カ-のハシリのような底厚の紐靴が出始めて、憧れでした。

旅行委員になっていたので、時々の集りは記憶にあります。でも、遅くまで残ってしおりを作り、その時なんだか楽しいんだか、ハチャメチャな事があったそうですが、全く覚えていなくて、とても残念です...

長崎の平和公園、原爆記念館は今も強烈な印象が残っています。永井博士の「この子を残して」が、ベストセラ-になり、映画化もされました。その資料も展示されていて、原爆のむごさと共に涙が流れてきました...

「ほいじゃぁけど、生き残ってもこねぇ-に辛い思いするんかねぇ-」「それっちゃぁ-ねぇ-子ども達が可愛そうちゃぁ-ねぇ-」「みなしごってどのぐらい出たのかしらん...」「アメリカっちゃぁ-えばちょるねぇ-」と、女の子達は話しながら歩きましたが、男の子達が言葉も発せず、黙々と見て歩いていた姿が、とても印象的でした。私達の学年には、父親の顔を知らない級友が何人もいます。戦争は決して遠い存在ではなく、身近だったのです。

坂道を歩いて、浦上天主堂へも行きました。未だ今のように立派な教会は建っていなかった気がします。坂の上に建つグラバ-邸は、眺めは素晴らしくて、「蝶々夫人」と「ピンカ-トン」の恋に思いを馳せたりしました。でも、建てものは暗くて、陰気な感じが残っています。今のようになったのは、もっとずっと後になってのことです。

さて、いよいよ宿泊の雲仙です....

木造校舎の15歳  5  農繁期休暇

信じて頂けないかも解りませんが、田舎の学校には農繁期休暇なるものがありました。麦刈り3日、田植え5日、稲刈り3日だった気がします。麦刈りと稲刈りは中間テストの前だった気も...

「ええねぇ- あんた達は試験勉強出来るじゃろうがぁ- うちらは勉強どころかクタクタに疲れるけェ-はぁ-もうバタンキュ-っちゃぁ-」「それっちゃぁ- ずるいっちゃぁ-試験が終ってからならええそいねぇ-」と、農家の級友達はぼやきます。「そうじゃねぇ-不公平かもしれんねぇ-、ほいじゃけど、うちだって山とかには行くそよぉ-」と、私は答えました。

「そりゃぁ-勉強出来るかもしれんけど、朝から晩まで勉強するそもえらいっちゃぁ- 家じゃぁ-試験前じゃろうがぁ-ってうるさく言われるし...」「それそれ、外でウロウロしちょると先生にも叱られるし、家にじっとおるんもえらいよぉ-」。非農家の生徒もそれなりの不満をもらします。「そりゃぁ-あんた達は百姓仕事をしちゃった事がないけぇ-そねぇ-な贅沢が言えるそいねぇ- 1回でもええけぇ-やってみぃねぇ-」と、農家の者は負けずに言い返します。

その当時、日本の稲作は全て手作業です。それにお米も足らなくて、増産が奨励されていました。中学生にもなればもう立派な働き手、労働力として当てにされます。大人と同じに早起きをさせられ、日が暮れるまで野良仕事です。バタンキュ-も当り前のお話です。愚痴をこぼすのもまぁ-仕方ないでしょう。

麦刈り休みの時、母と一緒に山に行きました。お風呂やかまどの焚付けに下枝を集める為です。木の下を中腰で集めるのですから、結構きつい仕事です。でも私は山が好きなので、そんなに苦ではありませんでした。それに大好きな「ハチク(筍の一種)」が出ている時期です。それも一緒に採って帰れるので、楽しみでもあります。

山の中をゴソゴソ動いていますと、なんともいえない匂いが漂ってきます。「ねぇ-おかあさん、これなんの匂いぃ-?」と母に尋ねました。「栗の花じゃろうがねぇ-、どっかに咲いちょらんかねぇ-」と言う答えに、そこらを見回しました。確かに白い栗の花が咲いています。「咲いちょる咲いちょる、ふ--ん、これが栗の花の匂いちゃぁ-ねぇ-」、と初めて知りました。

田植えの休暇は、私は母の里に手伝いに行きました。勿論、農家の級友達とは違って、朝もいつもの時間位に起きました。それでも祖母の手伝いをして、田んぼにも入りました。それなりにきつかったはずですのに、なぜか楽しい思い出ばかりです。気楽な手伝いだったからでしょうか...今思えば、とても貴重な体験だったと有難くさえ思えます。

いつ頃だったか忘れましたが、地元の高校で臨時の託児所が開かれ、妹と弟を預かって頂きました。それが幼稚園の出来るきっかけになり、しばらくして幼稚園が開園しました。

農繁期休暇がなくなったのは、一体いつ頃だったのでしょうか...
その休暇のために夏休みは7月26日からでしたが...

木造校舎の15歳  4  予算委員会

クラブは生徒会に属しています。部長は3年生がなり、その最初の仕事が活動費確保の予算委員会。どの部も、いかにして少しでも多くの予算を確保するか、知恵を絞ります。 クラスでは野球部のN君、ソフト部のKちゃん、そして私の3人が部長です。私は新聞部と音楽部です。新聞部はクラブ予算の1/3位を使います。毎年それでもめるのです。私も顧問の先生(担任です)としっかり打合せをして、説明する台詞も教わって臨みます。


 「こりゃあ-毎年の事と思うけど、大体新聞部はなしてそねぇにがばぁっと使わんにゃぁいけんそかぁ-- ほいで一体、なにょぅをしちょるそかいのぉ--!」 初っ端からN君はけんか腰です。「ほいじゃけど印刷代だけよぉ-- 版下も自分達で作って倹約しちょるんよぉ-- これ以上は、はあ、もう、なんちゅうても絶対にダメ!」 「なにぃ--そいならもう新聞部なんかいらんっちゃあぁ-- 」 生徒会長も困り果てた顔で、みんなを見回すだけです。時間はどんどん過ぎていきます。「それじゃあ、今日はこれまでで、また明日にします。」


何度かの委員会があって、後は新聞と野球部だけになりました。 「ほいならなして新聞部がいるか、言うてみぃっちゃぁ--」 「新聞部は学校新聞で、全国の学校と情報交換したりして交流しちょるんよ。そりゃぁ--1回の発行でもええっちゃぁ--。そいじゃけどしもんせきの中学校で、あそこは1回しか出しちょらん、って、バカにされても知らんちゃぁ--ねぇ-- そいでもえかったら、はあ、なんぼでもええっちゃぁ--」 「おまえそねぇな事言うて、おどすんかぁ--?」 「そねぇな事はないっちゃぁ-- ほんとの事言うただけちゃぁ-- みんなも活躍しても、1回の発行やったらのりゃぁ--せんけぇねぇ-- よう考えてよねぇ--」 「......」。それでやっと決まりましたが、収まらないのは野球部! N君なんかそこら中蹴飛ばして荒れていました。「はあ--もう-- 口じゃぁ--かなやぁ-せんっちゃあぁ--!」


その頃、S先生のご指導で、新聞部は全国コンクールに佳作ながら入選していました。その新聞部も、今はないそうです。ちょっと 寂しいですね。