想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論 -5ページ目

想いつくまま雑論  (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性)第三の文化論

何でも書こう
 (日本の歴史が培う文化思想原理の特殊性、)(哲学思想)(政治経済)などなど、

では、資質の差異に基づく各自の位置付けとしての、この上下本末に於いて、最も上の者は、何が故に最も上なのかと申しますと、それは、一つの集まりに於ける中心人格であるが故に、最も上なのであります。

本来、中心人格とは、下の者の心を一つにまとめるための鑑もしくは師表であります。下の者からすれば、自分が自分らしく生きんとするときに仰ぎ見る鑑、顧みる師表であります。

例えば、子が子らしく生きんとするときに、父親ならどうするだろうかと、我が父に照らして己を見る。また、社員が社員らしく活動せんとするときに、社長ならどうするだろうかと、我が社長にてらして己を見る。そういう父親や社長が中心人格なのであります。

従って、突き詰めますと中心人格の役割とは、力によって下の者を制することではなく、己の前進全霊を賭けた言動によって人の情理を整えることだと言えるのであります。

言を換えますと、ややもすれば個体小我の幻想にとらわれ、欲望の体系へ流される下の者の父となり師表となり、下の者を迎慕心服せしめて然態に帰らしむ者。己の情理を整える事によって下の者の情理を整え、その妬み嫉みを裁ち切り、共同運命の自覚へと向かわしめる者。そして、下の者に各々の能力を最大限に発揮させ、生き甲斐のある人生を歩ませる者。これが、中心人格と言えるのであります。

ここに於きまして、中心人格の具体的、、、、

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そこで、我々が異なりを認めながら一つを自覚し体系化するためには、各々がその処を得ることがもとめられるのであります。

言い換えれば、我々人間には、多々が己の自由と責任の最大実現可能な処に位置し、時処位に即して全力を尽くすことが求められておるのであります。

これを現実社会に於いて言うなれば、それは、各々が様々な人の集まりの中で、上下本末を自覚すること、則ち、誰が上で誰が下か、誰が本で誰が末か、また自分がそのどこに位置しているかを認識し、その立場に立って、『らしく』振る舞うことに外ならないのであります。

しかしながら、この上下本末は階級制度でもなければ力による序列でもありません。

これは、人間の長幼の差、経験や知識の差、能力の差等によって必然的に生ずる位置付けなのであります。例えば今、中学生が『お前は国語の成績がきわめて優秀である。よって明日からこのクラスの担任になって、国語の教師をせい』と言われても、それはできません。

しかし、中学生としての本文なら果たすことができるのです。たとえ生命の尊厳に基づく法の下の平等はあれども、そこは毅然として、こうした差異が存在するのであります。だから、上下本末の自覚とは、このような現実に即して我が親の前では子らしく、我が子のまえでは親らしく振る舞えという意味なのであります。

では、資質の差異に基づく各自の位置付けとしての、、、、、続く
本来、国会議員の使命は 国民に成り代わって『住みよい社会環境を国民に提供すべく、邁進すること』では、なかろうかとおもう。

では、住みよい社会 とは何か。

外交・防衛を確立した国家運営と 国民が生活に於いて、幸福感を感じることが出来る社会環境 が住みよい社会ではなかろうかと思う。

また、これが、党利党略を越えた国会議員の 共通の目標では、なかろうかと思う。

その目標に向かって、各政党が切磋琢磨することが、政党政治。 しかし、手段が目標に成りがちが目立つ。

新体制を運営するに当たって、根っこの部分を 明確に 再認識して 住みよい社会を 造って欲しいと お願いしたいです。


さて私は天皇とは何か、また何故国民が天皇を仰慕し、その血統の絶えぬことを願って来たのかという問いの答えとして、先ず三つの理由を挙げました。

そして、第一の理由として、我が国には『和』の基、共通の基盤が人倫秩序としてそこにあったことを、永い時間を割いて説いてまいりました。これは『第三の文化論』の根幹の一つを成す部分ですので、ここでもう一度、手短に申し上げておこうと考えます。

我が国の文化の指導原理は、『和』の哲理であります。これは東洋的なる物心未分、一元生命という物の見方によって得られた、宇宙自然を貫く原理であって、一言で申しますなれば、『我無くして彼無し、彼無くして我無し』の真実相であります。則ち、我と彼とは個体にしては同にあらずして、明らかに異なれど、異なるが故にかえって、互いが互いを必要とし、互いが互いによって成り立たしめられているのであります。この様相を『全一』ともうします。

また、『和』の哲理は、生命発展衰滅の法則でもあり、この原理に即して体系化する生命は発展し、これに則さぬ生命は衰滅を余儀なくされて来たのであります。従って、この『和』の哲理は、宇宙自然については、『異なるが故に事成る』という客観的法則であると同時に、人間に対しては規範として、『異なりを認めながら一つを自覚せよ』と説くのであります。

しかしながら、、、、続く
つぎに、このようにして総意に基づいて出された我が社の方針は、社長の名に於いて出された共通の目標であります。つまり、中心人格はこの決定に対する最高責任者なのであります。ただ、注意して戴きたい事は、ここで私が『責任』と申しますのは、決して『責任を取って会社を辞める』という、権力関係、権利・義務関係に於ける責任ではないという事であります。このような責任は単なる法律上の処理に過ぎません。

第一、社長が辞めても、会社がなくした信用は戻らないのです。顧客が受けた損害は贖えないのであります。

これに対しまして、本当の『責任』とは、人の道の上にあるものであります。それは、よい結果に対しては下の者と共に喜び、悪い結果に対しては、下の者と共に泣き、共に泥をかぶるという責任であります。これは丁度、親が子に発揮する家族的情愛であって、子供からすれば、親のすることを見て人のあり方、責任の取り方を学ぶのと同じ事であります。

このようにして始めて、会社の対外的信用が高まると同時に、社長に対する重役の信頼、ひいては上司に対する部下の信頼が高まっていくのであります。

この共通の目標に向かって邁進する中心人格の姿、目に物見せて人を納得させる責任の取り方、これがいわゆる率先垂範、即ち、中心人格の、要としての第二の役割なのであります。

このように、中心人格とは単なる司会者や議長でもなければ、諸外国歴代の王のような権力者でもありません。それは逆に、下の者に家族はどうあるべきか、社員はどうあるべきかをじかに見せて、下の者の鑑、下の者の師表となる者のことなのであります。言を換えますと、中心人格とは、人としてのあるべき姿を、現実の、生きている身近な人間の言動としてそこに示して見せることによって人の条理を整える者、人の心を一つにまとめる者なのであります。

その際、権力など何等必要ではありません。何故なら、下の者がこの中心人格に仰慕心服しその命令に従うとき、それは、中心人格の持つ力に従っているのではなく、中心人格を己の鑑と成し得る、その資質と能力、即ち、人格に付き従っているからであります。

しかし、こうした討議の場に於いて、それぞれの立場から出される意見や主張というものは、どうしてもその立場に限定されたものになる傾向があります。製造部門は製造部門の立場で、販売部門は販売部門の立場で、経理は経理の立場で者を言うものなのであります。


それぞれは真剣に議論をしているのですが、そうした責任感がかえって、自分の利益へのこだわりに繋がってしまうこともあるのであります。


そこで、中心人格たる社長は、このような個体小我にこだわる者の心を全社的立場に引き戻さねばなりません。言うなれば、社長は個人に内在したる『全社的精神の発現』を促すのであります。


そして、ついに全員が納得のいく総意に至り、それが、社長自身の全社的精神に一致したときに始めて、我が社の方針ここに決せりと判断するのであります。これが中心人格の、要としての第一の役割であります。要するに、中心人格は下の者の言動に全社的立場という指針を与える者なのであります。


しかし、もっと肝心な事は、社長はしばしばこうした重要事項の決定に関わるのですから、常日頃から全社的立場、長剣力的・超党派的立場を貫いていなければなりません。そうでなければ、すぐに『あの社長は何某を贔屓している』という妬みが下の者に起きて、会社は衰滅いたします。


逆に、社長がいつも全社的立場に立っている会社では、下の者が個体小我に囚われることもなくなり、その会社は発展するのです。ですから、いつも申し上げて降ります事ですが、社長には公はあっても私はなし。二十四時間が会社と全社員のためにあるのであります。


つぎに、このようにして総意に、、、、続く

話は、本論に戻ります。

人が上下本末を自覚して己の本文を果たしていくためには、共通の目標を持つことが必要であります。

しかし、共通の目標を決め、それを実行するという事は、実は、一つの集まりに於いて上下本末の自覚が最も強く求められる場面なのであります。

ここでひつようとなってまいりますのは、『中心人格』であります。それは家族にあっては父親、会社にあっては社長であり、その役割は、異なる者同士の心を一つにまとめる、情理統合の要であります。

例えば、『我が社は今後どのような途を進むべきか』という事を決定する際、その手段・方法が、できるだけ多くの情報を収集し討議を重ねることであるのは言うまでもありません。

しかしそれよりも先ず、この共通の目標は総意に基づくものでなければならないのであります。言い換えますと、誰もが納得のいくもの、公正にして無私なるものだけが共通の目標なのであります。

これを会社で申しますなれば、経営の専門家である社長と重役が納得し、全社員がそれに向かって一丸となって突き進んで行けるものだけが、『我が社の方針』なのであります。

では、我が社の方針を決める重役会議の場に於いて、中心人格たる社長の役割とは何でしょうか、それは先ず、重役達に大いに、自由闊達に、会社的立場に立った議論をさせることであります。

しかし、こうした討議の場に於いて、、、、、続く
既存政党の多くは、戦後の我が国の共通の目標は、自由と権利そして民主主義を守ることだとと申します。そして、現行憲法に於ける民主主義的諸制度によって国民の自由や権利が飛躍的に拡大したと、多くの者が賞賛しております。

しかしながら、欧米に於ける自由や権利というものは、生命結合の観点から見れば、政治・経済・法律といった生活体系の側面に於いて発生する概念であって、少なくとも生命体系にとっては手段の域を出るものではありません。

はっきり言えば、手段たる自由や権利をいくら行使しても、そこから何を実現するのか、何を守るのかという目標を求めなければ、何の意味もないのであります。

また、民主主義も所詮は手段であって、目標ではないのであります。何となれば、議会制度であれ多数決方式であれ、民主主義的手続きによって全体主義的体制を打ち建てることもできれば、逆に、独裁者によって自由主義を実践するできるからであります。

世界の政治史、法制史を紐解いてみれば、随所にこの歴史的事実を目の当たりにできるのであります。この点においてもやはり、手段である民主主義を守ると言うのなら、その民主主義によって何を実現するのか、何を守るのかという目標を求めれば、民主主義の意義などないに等しいのであります。

我が国民が戦後、懸命の努力により、短期間で経済の復興という目的を果たすことによって、世界の驚嘆を呼び起こしたことは大いにみとめます。しかし、その目的を果たした今日、本当の目的、生きる目的を持たずして時空に漂白する流浪の民となるのであれば、一体、何のための努力であったのでしょうか。

結局、個人や家族や会社のみならず、国家に於いても、共通の目標なき人間社会は生活体系のみに堕するという事が、歴史の証明するところなのであります。我が国とてこの歴史的宿命から逃れることはできません。

だからこそ、我が国を数千年の永きにわたって存続せしめてきた民俗歴史に一貫したる共通の目標、建国の理想を顧みるときが来ているのだと、私はいつも訴えておるのであります。



中心人格   続く
そのため、一人の人間のみならず、集団として共に生きる家族、会社、ひいては国家に於いても、人はただ集まっているだけではなく、ある事を成し遂げたいという願望や目的を持って集まって来たのであります。

従って、まず第一に、人がただの集まりでなく、家族、会社、国家という集まりをつくるとき、そこには、何のために生きるか、何を目的として生きるかという『目標』或いは、『理想』がなければならないのであります。

もっと端的に申しますと、集団としての人が人らしく生きようとするとき、そこには何らかの『共通の目標』が必要となるのであります。

確かに、家族には愛情という情理の絆があります。この愛情を終生保ち続けるのも一つの目標と言えましょう。

しかし、情理は心の働きであって、いつ如何なる時も不変であるとは限りません。心ほど移ろい易いものはないのです。

だから、たとえ家族であっても本当に人らしく生きるためには、その向かうべき方向、向かうべき処、則ち、生きる『目的』がありませんと、その家族は真の家族とは言えないのであります。

ましてや、情理だけでは済まぬ会社ともなればなおさらであります。内外の情勢、消費者の動向、自社の持てる能力を熟慮した上で、『我が社は今後このような目標に向かって進む』という方針を示し、その方法を準備する必要があります。

この目標があって始めて、良質の商品を提供して社会に貢献し、仕事を通じて社員に生き甲斐を与えるという社会的使命を果たすことが出来るのであります。

もし、この目標、則ち、『我が社の方針』がなければ会社はどうなるのでしょうか。ただ目先の利潤が目標と化し、『何でも良いから売りまくれ』、やれ『先月より売り上げが落ちた』、やれ『昨年同月より利潤率が下がった』・・・。これだけであります。やはり、人の集まる処、共通の目標が不可欠なのであります。

では国家に於いてはどうか。例えば、我が国の共通の目標は何だろう。終戦直後なら、とにかく経済の復興が共通の目標でありました。だが、生活体系に於ける目標が達成された今日、いつまでもこればかりとはまいりません。ところが、甚だゆゆしき事に、現在我が国民には共通の目標がないと言い切らざるを得ないのであります。

既存政党の多くは、、、、続く
これまでの話を、もう一度まとめてみますと、我が国の指導原理は『和』の哲理である。

それは一言で申さば、『事なりを認めながら一つを自覚すること』であって、『異なるが故に事なる』という、宇宙自然を貫く原理に拠って立つ考え方である。この哲理の上に立った東洋的なる家族や会社に於いては、各々が上下本末を自覚し、時処位に即して全力を尽くすことが、個人の自由と社会の秩序の成立基盤であります。

また、こういう生き方こそが、人らしく生きるという事であります。そして、我が国に於いては、この『和』の哲理に基づく家族的協力関係を社会関係いまで、拡大し、これを『和』の基、則ち、『共通の基盤』として、歴史的に保持して来たのであります。

しかしながら、これだけでは生命結合の体系化、則ち『和』が成立する物ではないのであります。

なぜなら、人は動物と異なり、『自分は何故ここにいるのだろう』、『自分は何のために生きているのだろう』等と考えるからであります。

言い換えますと、人間は自己の存在の意義、自己の行動の意味や目的を求めるからであります。

信・善・美を求め、善悪を判断し、合目的行動をとろうとするのも、人格体としての人間の宿命なのであります。

そのため、一人の人間のみならず、集団として共に生きる家族、会社、ひいては国家に於いても、人はただ集まっているだけではなく、ある事を成し遂げたいという願望や目的を持って集まって来たのであります。

そのため、一人の人間のみならず、、、、     続く