そこで、我々が異なりを認めながら一つを自覚し体系化するためには、各々がその処を得ることがもとめられるのであります。
言い換えれば、我々人間には、多々が己の自由と責任の最大実現可能な処に位置し、時処位に即して全力を尽くすことが求められておるのであります。
これを現実社会に於いて言うなれば、それは、各々が様々な人の集まりの中で、上下本末を自覚すること、則ち、誰が上で誰が下か、誰が本で誰が末か、また自分がそのどこに位置しているかを認識し、その立場に立って、『らしく』振る舞うことに外ならないのであります。
しかしながら、この上下本末は階級制度でもなければ力による序列でもありません。
これは、人間の長幼の差、経験や知識の差、能力の差等によって必然的に生ずる位置付けなのであります。例えば今、中学生が『お前は国語の成績がきわめて優秀である。よって明日からこのクラスの担任になって、国語の教師をせい』と言われても、それはできません。
しかし、中学生としての本文なら果たすことができるのです。たとえ生命の尊厳に基づく法の下の平等はあれども、そこは毅然として、こうした差異が存在するのであります。だから、上下本末の自覚とは、このような現実に即して我が親の前では子らしく、我が子のまえでは親らしく振る舞えという意味なのであります。
では、資質の差異に基づく各自の位置付けとしての、、、、、続く