clockwork-sceneブログ「キロック」

clockwork-sceneブログ「キロック」

clockwork-sceneの心象風景、その記録。


この画の主題とは若干異なるのですが、自分の(よく考えたらほかの人のも!)録った音を聴いているときって、耳に全集中しようとして、こんな感じでぼーっと虚空をながめてるときが多いな、と、気が付きました。見えてるはずなのに、なんにも覚えてないの不思議です。

さらに先日、作業の途中で外に出て帰ってきたときも、次やる作業のことを考えながらそそくさ歩いていたら、工事中で集合住宅の入口のオートロックの扉が全開なのをすっかり忘れて、通常どおり鍵をさして扉を開けようとしているわたしの一部始終を工事のお兄さんに目撃されて気まずかったです。


べえす かえ #単なるぼんやり

春になったらお花見ができると自動的におもってしまうくらいに、「これは絶対こうだ」とじぶんがつよく思いこんでいたことについて、実際はよい意味で真逆の結果を目の当たりにしたときのきもちをなんと呼べばよいのか。予想外のうれしさに心からありがとうとおもうけど、この場合一体何に感謝しているんだろ。

話はかわり、友だちのライブを先日初めて観に行かせてもらって、またびっくりするくらい感動してしまいました。すきなものは飽きるまですきでいてよい、と肯定してもらったような、元気が出る音でした。


べえす かえ

すこしずつ、自分の名前は透明になり、体に張り付く名札ばかりが目立つようになる、
確かに体は動かしているのに、僕の動物としての証は冷たく固い剥製になり、
他の何にもならない静かなものになっていく
意識は、でも、随分前から変わらないままなので、
そのまま僕は寂しい気持ちを持ってしまう、ここからの時間は長い
動きがなくなればなくなるほど、昔のことは輝いて見える
離れるほどに一点の輝きが際立ち、静かな僕の静かな思いはその一点に向って糸が伸びていく

 


まずもっとも基礎となるスキルを習得するときに、教えてくださる方がひと通り説明されたあとに「結局は感覚」みたいに締めくくられると、じゃあ今の長めのお話の時間は一体…と、ちょっと見放された感があるような気がする一方で、その「感覚」はそのときの予想とぜんぜんちがうかたちになってじぶんの中に芽ばえたらしい、と後日気がつくとほんとにうれしいものです。

楽器とか音楽とかもそういうことあって、リハのあとで個人作業するときに、いまいちピンときていなかったほかのメンバーの意図が急にわかったときに、おおおお!となるときはよりたのしく感じます(答え合わせは忘れずに指差し)。あせらずにしかし最短で、を心がけてゆきたいです。

そんなあかるい気分の日に、開店したてのお花屋さんにたくさんあったあかるいミモザの花束をひとつ買って帰りました。


べえす かえ