CLEOPATRA Ⅷ  -31ページ目

人生の先輩達や仲間に学ぶ

好きなことは続けないとダメだなぁと先輩やら仲間に恵まれて気付いた。
頭の固いおっさんの下でお固い脳みそになるとこだった。


セーフ!


近道は逃したかしらんけど遠回りしたぶん、他の人には出来ない色んな経験しよう。


とりあえず小さな目標。ブログ、フリーペーパー。


先輩、仲間ありがと!

岡崎四郎義実

洗礼を受ける

「今日新しいバイト先で洗礼を受けたよー」

「やっぱりプロのピアニストは違うね、洗礼を受けちゃったよ」



などなど。

最近の若者はあまり使わないであろう、「洗礼」という言葉。


私は昨日初めて教会というもので礼拝をしてきました。といっても家は田舎の生粋の日蓮宗で、私自身小さい頃からお寺に遊びに行ってはお経を唱えてたのでキリスト教を信奉しているわけではない。かといって仏教徒という自覚もなく、何かに対しての信仰心というものがあるわけでもないが。


宗教に対しての興味はやまず、本を読むのは常であるが机の上で勉強したって体験には及ばない。信仰心があるわけでもないのだが、教会でキリスト教はどんなものなのか肌で感じ取ってみたいと言う願いがかねてからあり、中・高校時代と、キリスト教の学校に通っていた親しい友人と一緒に教会に足を運んだ。


教会に着くとまさしく洗礼を受けた。教会でこの言葉を使うとしゃれにならないが。熱心なキリスト教徒の皆さんにかこまれ、イエス様のお話や礼拝のこと、聖書のことをいろいと親切に教わった。

そして間もなく祈祷会が始まり、聖書のイザヤ書の朗読、証言が行われた。(証言は牧師ではなく一般の方が皆の前で体験とむすびつけた説教をする。また、牧師というのはカトリックでの司祭にあたり、プロテスタントでは聖職者と呼ばず、牧師という。また、司祭と違い、牧師の結婚は進められており、カトリックには未だいないが、女性の牧師も多くいる。)


そしていよいよ聖堂に移り、聖日礼拝式(終末聖日・収穫感謝日・謝恩日)が始まった。

初めての聖歌隊による讃美歌。空気が澄んだように感じられとても気持ちがいいものだった。そして、牧師による説教、聖書の朗読、祈り・・・・などなどが約一時間半続く。

周りを見渡すと若い者は私と友人の二人だけ。90歳なんてざらで、100歳を超えるおばあちゃんおじいちゃんなど品のいいおばあちゃま方ばかりだった。みな何十年も熱心に通っているという。

小学校の時、毎週金曜に近くのお寺にお経を唱えに行っていたのを思い出す。そこに毎週来ていたのはやっぱりおじいちゃんおばあちゃんで若い者は友達と夜会えるのをいいことに集まっていた私たちだけだった。


献金をした時、祈るのにお金が必要なのか・・・と思ったが、よく考えると、仏教も同じである。

お寺の入り口から始まり、本堂に着くまでにいくつのお賽銭のポイントがあったであろうか。それをきっかけに、肌で感じる仏教との違いが頭をめぐった。信じる神や考え方こそ違えど熱心に祈る人々の違いはというと全くなかった。今までキリスト教を研究対象として見て興味は尽きなかったのだが、いざ本当にキリスト教を熱心に信じる人に会うと、なにか熱心すぎて違和感を覚えていたがその感じ方の中には、私は多少なりとも自分の触れてきた文化と違うというだけで偏見を持っていたのだと気づかされた。妙本時に熱心に通っていたあのおばあちゃんたちと何も変わらない人々がそこにいるのだと実感した。


そこで出会ったどの人もみな心が静まっていて穏やかであったことも特に印象的だった。

私は何教を信じたいかと考えたがやはり心のよりどころとする宗教ははっきりしない。正直、何かの対象を信じる気にはなれないが、何教であってもこうやって穏やかに心を静める場所はいいものだなと感じた。

イタリアでの黄金の壁の聖堂は恐怖感さえ覚える威圧感でいっぱいだったが、プロテスタントの教会は質素で気持ちが落ち着いた。カトリックもプロテスタントもどちらも信奉していないから言えるのだが、これも好き好きなのだろうか。


神様もそうだけど自分を信じないとなとふと思ったり。結局またこの考えに至った。

しかし体験とはどんなえらい本にも勝てる気がする。

貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。