CLEOPATRA Ⅷ  -30ページ目

ただいまnippon


昨日NYから帰りました。



ほんっと最高に刺激的な毎日で、いろんなことが起きたなー



世界中を歩いた気分になれる街。



時差ぼけです。

義実の嫡男、佐奈田与一義忠


佐奈田与一義忠



CLEOPATRA Ⅷ 

CLEOPATRA Ⅷ 


CLEOPATRA Ⅷ 


「岡崎四郎義実の嫡男にて幼年より武勇絶倫衆に勝る。時に頼朝卿・・・」などと書いてある。

俣野景久との因縁や石橋山合戦時の組み討ちについて書かれている。

(歌川国芳による錦絵(天保14年~弘化年間 1843~47))



以下wikiより。

スミマセン!!



佐奈田義忠(与一)の奮戦は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しい。

父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と俣野影久(景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じた。

与一は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した。



頼朝は与一の装束が華美で目立ちすぎるだろうから着替えるよう助言するが、与一は「弓矢を取る身の晴れの場です。戦場に過ぎたることはありますまい」と言うと白葦毛の名馬にまたがり、15騎を率いて進み出て名乗りを上げる。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六ら73騎が襲いかかった。

この合戦は夜間に行われ、その上に大雨で敵味方の所在も分からず乱戦となった。与一は郎党の文三家安に自分は大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば直ちに助けよと命じた。すると、敵一騎が組みかかってきた、与一はこれを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなく岡部弥次郎だった。義忠は残念に思い、首を谷に捨ててしまった。



闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に与一が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」と問うと、与一は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が与一と見当をつけた。これまでと思った与一は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが刺さらない。不覚にも鞘ごと抜き放ってしまった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けない。そうこうしているうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、与一の首を掻き切ってしまった。享年25

主人を失った文三家安は奮戦して稲毛重成の手勢に討たれた。



石橋山の戦いは頼朝の大敗に終わり、頼朝は山中を敗走し、安房国へ逃れている。

頼朝が治承・寿永の乱で勝利し、武家政権をほぼ確立させた建久元年(1190年)正月20日、頼朝は三島、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流したという。

与一の戦死した地には佐奈田霊社(神奈川県小田原市)が建てられている。与一が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや喘息に霊験があるという。

江戸時代に入ると佐奈田与一は美男の人気者になり、多くの錦絵が描かれている。



美男子として多くの浮世絵に描かれたということでお顔を拝見。

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↑歌川国芳

真田与一能久と俣野五郎景久
大錦三枚続横絵 天保6年(1835)




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↑勝川国芳
治承四年八月廿二日夜源平石橋山大合戦佐奈田俣野組討ノ図
文化12~天保13年(1815~42)



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↑勝川国芳
耀武八景・石橋山秋月
大錦縦絵 天保14年~弘化年間(1843~47)




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↑初代豊国
真田与一と俣野五郎
大錦縦絵 年不詳






岡崎四郎義実2

とりあえず手元に資料がないのでwikiより引用です。

スミマセン!!










岡崎 義実(おかざき よしざね)は平安時代 末期から鎌倉時代 初期の武将 三浦義明 の弟。三浦義継の末子で三浦悪四郎と呼ばれた。相模国 大住郡 岡崎(神奈川県 平塚市 岡崎)を領し、岡崎氏 を称した。


三浦氏 は古くからの源氏 の家人で、義実は忠義心厚く平治の乱 源義朝 が敗死した後に鎌倉 の義朝の館跡の亀谷の地に菩提を弔う祠を建立している。義朝の遺児源頼朝 の挙兵に参じ石橋山の戦い で嫡男の義忠を失ったが、挙兵直後の頼朝をよく助け御家人 に列した。晩年は窮迫したが89歳の長寿を全うした。

土肥実平 の姉妹を妻にしており、本家の三浦氏とともに土肥氏 とも関係が深い。







頼朝挙兵


治承 4年(1180年 )8月9日に義朝の遺児の頼朝が伊豆国 で挙兵を決めると嫡男の与一義忠とともに直ちに参じた。挙兵を前に義実は源氏の御恩のために身命を賭す武士として、特に頼朝の部屋に呼ばれて合戦について相談され「未だに口外していないが、汝だけを頼りにしている」との言葉を受け、感激して勇敢に戦うことを誓った。実は、このように密談をしたのは義実だけではなく、工藤茂光 土肥実平 宇佐美助茂 天野遠景 佐々木盛綱 加藤景廉 も同じことを頼朝から言われている。

ただ、義実・義忠父子が特に頼みにされていたのは事実で、挙兵前にあらかじめ土肥実平と伴に北条館へ参じるよう伝えている。

8月17日に頼朝は挙兵して伊豆目代 山木兼隆 の館を襲撃してこれを殺害した。

頼朝は300余騎の軍勢を率いて相模国の土肥郷(神奈川県湯河原町 )へ進出。23日に石橋山(神奈川県小田原市 )で平家 方の大庭景親 率いる3000余騎と相対した。石橋山の戦い は寡兵の頼朝方が大敗を喫し、義実の嫡男の義忠が討ち死にしている。『平家物語 』や『源平盛衰記 』には先陣となった義忠の奮戦ぶりが詳しく描かれており、武勇の若武者佐奈田与一義忠の名は後世に長く残ることになる。

敗走した頼朝は山中に逃げ込み、土肥実平の進言で一旦兵を解散させることになった。一同は安房国 で再会することを約し、泣く泣く別れた。義実は北条時政 三浦義澄 らと先発して安房へ舟を出し、後から到着した頼朝を迎えた。

その後、頼朝は千葉常胤 上総広常 らの軍勢を加えて再挙し、関東 の武士が続々と参陣して10月6日に鎌倉に入った。




鎌倉の御家人

10月20日の富士川の戦い に参加し、合戦は戦わずして平家が敗走して終わった。合戦後の夜に、一人の青年が黄瀬川 の陣に現れ頼朝との面会を求めたが、その場にいた義実は怪しんで取り次ごうとしなかった。騒ぎを聞きつけた頼朝が面会すると、その青年は弟の九郎義経 であった。兄弟の対面に義実をはじめとする諸将は涙した。有名な黄瀬川の対面である。

治承5年(1181年 )6月、三浦義澄の館へ頼朝が渡り酒宴が催された。その席で、義実は頼朝着用の水干 を所望した。頼朝は快く許し、義実は喜んでその場で着用した。すると上総広常がこれを妬み「このような美服は、この広常こそが拝領すべきものだろうに、義実のような老い耄れが賞せられるなどとんでもないことだ」と言い放った。この暴言に義実は激怒し、つかみ合いの喧嘩になりかかった。頼朝は言葉もなく黙ってしまうが、三浦一族の佐原義連 が義実に「このような場で喧嘩とは老狂のいたすところか」と叱りつけ、広常には「あなたの言うことは道理に合わない、所存あれば後日に承ろう」と仲裁に入りことを収めた。

頼朝政権の中で飛びぬけて多くの兵力を有する広常には驕慢な振る舞いが多く、 を制して武家政権 を樹立するよりも関東割拠を主張するなど危険な存在であったため、この3年後の寿永 2年(1184年 )に頼朝の命令で梶原景時 に暗殺されている。

義実の元には、石橋山の戦いで嫡男の佐奈田義忠を討ち取った長尾定景 が預けられていた。慈悲深い義実は息子の仇を討って首を刎ねることなく囚人として捕らえるに留めおり、定景は日々法華経 を読経していた。ある日、義実は頼朝に「読誦を聞くうちに怨念は晴れました。もしも彼を斬れば、冥土の義忠が難を蒙りましょうから」と言って定景の赦免を願い出て、治承5年(1181年)7月に頼朝はこれを許した。

頼朝の挙兵にいちはやく参じて忠節を尽した義実は御家人 に列して、諸行事に参列している。既に70歳を超える老齢なためか、その後の平家追討の戦いには名が見えず従軍はしていないと思われる。

文治 4年(1188年 )8月、義実は相模国波多野本庄北方(神奈川県秦野市 )の所領を巡って波多野義景 と訴訟になり、義実は敗訴し、罰として鶴岡八幡宮 勝長寿院 での100日間の宿直を命じられた。結局、この罪は翌9月に義実の郎党が箱根山 で山賊の字王藤次を捕らえたことで許されている。

文治5年(1189年 )の奥州藤原氏 討伐に先次郎惟平 とともに従軍。




晩年

建久 4年(1193年 )8月24日に義実は大庭景義 とともに老衰であるためとして出家 入道した[1]

建久10年(1199年 )正月に頼朝が死去し、同年10月に三浦義村 和田義盛 が主導した梶原景時弾劾の連判状に義実入道は名を連ねている。

正治2年(1200年)3月14日、その日は余寒冬よりも甚だしかったが、義実入道は杖をついて尼御台所(北条政子 )の御所を訪ねて来た。義実は80歳を超えて老衰し、病に苦しみ、余命いくばくもないのにもかかわらず貧乏して頼むところもない。所領は亡き義忠のために仏寺へ寄進したいと志しているものの、残る所領も僅かで子孫のことが案じられると泣いて窮状を訴えた。政子はこれを憐れみ、石橋山の合戦の大功は老後であっても賞せられるべきであると将軍 実朝 に一所を与えるよう使いした。

その3ヶ月後の6月21日に義実は89歳で死去した。








CLEOPATRA Ⅷ 

義実の墓。お参りに行きたいです・・・。











つづく・・