義実の嫡男、佐奈田与一義忠
佐奈田与一義忠
「岡崎四郎義実の嫡男にて幼年より武勇絶倫衆に勝る。時に頼朝卿・・・」などと書いてある。
俣野景久との因縁や石橋山合戦時の組み討ちについて書かれている。
(歌川国芳による錦絵(天保14年~弘化年間 1843~47))
以下wikiより。
スミマセン!!
佐奈田義忠(与一)の奮戦は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しい。
父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と俣野影久(景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じた。
与一は討ち死にを覚悟し、57歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が2歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した。
頼朝は与一の装束が華美で目立ちすぎるだろうから着替えるよう助言するが、与一は「弓矢を取る身の晴れの場です。戦場に過ぎたることはありますまい」と言うと白葦毛の名馬にまたがり、15騎を率いて進み出て名乗りを上げる。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六ら73騎が襲いかかった。
この合戦は夜間に行われ、その上に大雨で敵味方の所在も分からず乱戦となった。与一は郎党の文三家安に自分は大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば直ちに助けよと命じた。すると、敵一騎が組みかかってきた、与一はこれを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなく岡部弥次郎だった。義忠は残念に思い、首を谷に捨ててしまった。
闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に与一が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」と問うと、与一は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が与一と見当をつけた。これまでと思った与一は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが刺さらない。不覚にも鞘ごと抜き放ってしまった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けない。そうこうしているうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、与一の首を掻き切ってしまった。享年25。
主人を失った文三家安は奮戦して稲毛重成の手勢に討たれた。
石橋山の戦いは頼朝の大敗に終わり、頼朝は山中を敗走し、安房国へ逃れている。
頼朝が治承・寿永の乱で勝利し、武家政権をほぼ確立させた建久元年(1190年)正月20日、頼朝は三島、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流したという。
与一の戦死した地には佐奈田霊社(神奈川県小田原市)が建てられている。与一が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや喘息に霊験があるという。
江戸時代に入ると佐奈田与一は美男の人気者になり、多くの錦絵が描かれている。
美男子として多くの浮世絵に描かれたということでお顔を拝見。
↑歌川国芳
真田与一能久と俣野五郎景久
大錦三枚続横絵 天保6年(1835)
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↑勝川国芳 治承四年八月廿二日夜源平石橋山大合戦佐奈田俣野組討ノ図 文化12~天保13年(1815~42) |
↑勝川国芳
耀武八景・石橋山秋月
大錦縦絵 天保14年~弘化年間(1843~47)







