とうよう師が選ぶ大衆音楽100選-17 M.M.誌創刊20周年企画’89 | 偽クレモンのブログ

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〇法悦のカッワーリー(Ⅱ)/ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン<現時点(1989年現在)での断面図を見せる50枚、の15>

 

ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン(1946~1997)は、パキンスタンのミュージシャン。カッワーッリーという宗教音楽の第一人者。亡くなって20数年経過した今も第一人者だと、たぶんほとんどのカッワーリファンは思ってる。ヌスラットの初来日でのエピソードは今でも音楽ファンの間で語り草だ。1987年の初来日・初公演は、単独ライブではなく、文化交流的なイベントの一環として行われた。当時、日本では全くの無名だったヌスラットは、特に熱心な音楽ファンも少なかったであろう聴衆の心を一発で鷲掴み。普通のその辺のオッサン・オバハン達は皆、無心に手拍子を合わせ、公演後のロビーではヌスラットにサイン攻め。そう、ヌスラットのカッワーリーは宗教音楽でありながら懐が深く、パキスタンでは新譜がバンバンリリースされる市場性を持った大衆音楽なのであった。

 

私はM.M.誌上でとうよう師があんまり褒めるので数枚はCDを購入した。元より浅く広くが身上なので沼ハマりすることはなかったが、一時期愛聴していた。この盤は持っていない。じゃ、1曲聴く前に、もう少しカッワーリーについて素人解説する。

とうよう師によると、来日時のヌスラットバンドは12人編成で、前5人、後ろ7人で胡坐をかいて座り、楽器は2台のハーモニアムというリードオルガンと、タブラというインド発祥の打楽器1台。そして全員が歌の担い手だ。当然、ヌスラットがファーストリードで、左端に座る。セカンドはハーモニアムを挟んで中央。さらにハーモニアムを挟んで修行中の若手が右端。曲は、主旋律は決まっているが、一通り主旋律を奏でた後はアドリブの応酬に突入する。ソロを取る順番も自主性とアイコンタクトが全て。時には、満を持してセカンドが唸りをあげた途端、ヌスラットに制されたり、二人が同時にソロに入ってしまい片方が仕方なく引き下がったりと、全盛時の緊張感あふれるJAZZのセッションの如し。若手が必死にヌスラットにアイコンタクトを送ってもなかなかソロが許されず、ようやく許可が降りてうなり出すと、終始ヌスラットの厳しい目に晒される、なんてことも。

そんな予定調和のアレンジとは対極の高度なセッションが毎ステージ行われていたそうな。で、聴いてもらうのだが、そんな一発勝負の演奏とはとても思えない綻びのなさ。大衆音楽なのに客が緊張のあまりハラハラしてたらダメなわけで、緊張感がありながら音楽として楽しめるのが本懐。コーラス隊も含めて極めて高度な音楽家の集団が、相当数の場をこなしてきたからこそ、こんな素晴らしいライブ演奏ができるのだろう。

Haq Ali Ali | The Ecstatic Qawwali (II) | UNFAK |Japan 1987 #qawwali #manqabat (youtube.com)

 

ヌスラットは1997年に亡くなるまで精力的に音楽活動を続けた。時には、え?こんなことしていいの?と心配になるようなコラボも平気でした。ヌスラットは、俺は高尚な宗教音楽家だからロックなんざと一緒にすな!なんて微塵も思っておらず、良く言えば融通無碍、悪く言えば節操無し。私も1枚、ロック系とのコラボの盤を持っているが・・・いまいちなのは単にプロデユーサの力のなさだろう。あぁステージ見ておきたかったな。後継者はいない。

 

〇淡淡幽情/鄧麗君〈デン・リージュン〉<現時点(1989年現在)での断面図を見せる50枚、の16>

 

テレサテンこと鄧麗君は1953年、台湾出身のシンガー。1974年に、既に本国で人気を博していた彼女の才能を舟木稔が見出して日本デビューさせた。多くの日本人は、彼女が日本語で歌った曲しか知らないであろう。このアルバムは1983年リリースされた、中国の古典的な詩に新たな曲をつけ、モダンなアレンジで歌った意欲作とのこと。じゃ、聴いてみる。ほぼ全曲アップされていたが、割と中華テイストの濃いテイクを選んだ。

有誰知我此時情 (youtube.com)

 

良い。まったく自分と畑違いの音でも、納得できる品質のものは全然聴ける。入った蕎麦屋で掛かっていたらそこの常連になりそうだ。それはともかく、最近のJ-POPよりは遥かに良い。音楽のアレンジは勉強すればなんとかなるが、歌唱は天性としか考えられない。まして、歌唱に愛を込めることができるのは、ごく一部の選ばれた人だけの才技なのだろう。wikiのディスコグラフィが日本語の日本盤だけなのは片手落ちどころかほぼ両手落ちである。

 

今日はここまで。暑くなりそうですな。