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まだ学生は、一流企業の本社勤務を希望しているのではないか? 最も選んではいけない対象である

今尚、学生は、一流企業と目されている会社の本社勤務を希望している
のではないか? 最も選んではいけない対象であるにも拘わらずである。


◆<パナソニック>本社数百人規模に 7分の1に削減 7月7日 毎日新聞

パナソニックの津賀一宏社長は毎日新聞のインタビューに応じ、10月に始動する「新本社」の人員を、現在の7分の1以下の数百人規模にまで絞り込む方針を明らかにした。本社は戦略立案や投資の決定など企画機能を中心とし、意思決定を迅速化する。また、過度な円高などで日本の製造業の競争力低下が指摘される中、国内の生産拠点を維持する考えも強調した。

 本社の社員は現在約7000人いる。各事業部門をサポートする「全社サポート部門」を新たに設置したうえで、研究開発や調達など数千人を同部門に移す。津賀社長は「(本社は)数百人でも十分対応できる」と述べた。

 一方、津賀社長は、国内の生産拠点について、「これ以上減らすと、基礎的な力を維持できなくなる」と維持する方針を強調した。以上

◆日本から本社が消える日 

毎日新聞に依ると、<パナソニック>本社数百人規模にとの事である。

本社の社員は現在約7000人いる。各事業部門をサポートする「全社サポート部門」を新たに設置したうえで、研究開発や調達など数千人を同部門に移す。津賀社長は「(本社は)数百人でも十分対応できる」と述べた。以上

以前のアゴラ記事、日本から本社が消える日を投稿した時のパナソニック発表は7,000人の本社スタッフの半減であった。しかしながら、私はそんな中途半端なリストラに意味があるとは思えず、敢えて「日本から本社が消える日」と言う挑発的なタイトルを設定した記憶がある。

従って、私は今回のパナソニック発表を少しも驚かない。寧ろ同社が生き残る為には当然と捉えている。

本社をリストラするのではなく、一旦「全社サポート部門」と言う、やがて解雇の対象となるであろう部門に全体を移し、戦略立案や投資の決定と言った経営のサポートが可能な、高度に専門的な部隊を新設すると考えた方が誤解が少ないのではないかと思う。

今回のパナソニックの決定は、会社員やこれから職を得ようと考えている大学生に多くの示唆を与えている。

先ず第一は、今回の一見過激とも思われる改革がパナソニック一社で収斂するのかと言う疑問である。同社は松下幸之助氏に依り設立された企業であり、極めて日本的な家族主義を標榜し、社員を大事にして来た。そして、成功にあやかろうと、多くの日本企業が手本としたのは事実である。

従って、結論を言えば、今後多くの企業が同社を追随し本社の抜本的見直しに動く筈である。その結果として、予想されるパナソニック同様の大胆なリストラは必然であろう。

第二は、企業に「本社」は必要なのかと言う根源的な疑問である。若い頃は痩せていたが中年となり肥満体になる人間が多い。肥満の大部分は内臓脂肪である。脂が少しずつ時間をかけ、内臓と内臓の間に蓄積されるのである。

企業も似ているのではないか? 創業時は「研究」、「開発」、「製造」、「販売」と言った判り易い組織構造であっても、時間と共に本社機構と言う官僚組織が肥大化、跳梁跋扈し、現場は隔靴掻痒に苦しむ。

★第三は、本社勤務社員の今後である。40才を超えていれば潰しが利かず職探しにさぞかし苦労する事になるであろう。30台であっても、本社勤務の如きぬるま湯に10年以上も浸かっておれば余程覚悟を決めて転職活動を行い、転職後も努力せねば務まらないのではないか? 年齢が上に行く程より大変なのは間違いないが、いずれにしても阿鼻叫喚の如き状況以外思いつかない。

★最後は、学生の就活に与える影響である。今尚、学生は世の中で名の通った、所謂、一流企業と目されている会社の本社勤務を希望しているのではないか?

 最も選んではいけない対象であるにも拘わらずである。

学生は就活以前に「何で?」食って行くか腹を決め、応分の「スキル」、「資格」を身に付けるなり、取得すべきであろう。

大学は「職業訓練所」ではないと言う直接の批判をしばしば頂戴する。私は何も東大や東大に雁行するエリート大学に「職業訓練所」に成れと主張している訳ではない。又、それ以外の大学が成れるとも思っていない。

将来の野垂れ死にが嫌なら、学生は生き残る為には何が必要か自分の頭で考え、結論を実行すべきとアドバイスしているだけである。無論、詰まらぬ老婆心との批判は甘受する。

最近は、政局の解説に忙しくて経済の事はご無沙汰でしたが、パナソニックの本社が7000人規模から数百人規模に縮小されるそうです。幾ら一流大企業と言っても本社に7000人とは多すぎるような気がする。仕事自体は増やそうと思えば幾らでも増やす事ができますが、書類仕事であり管理業務は肥大化していく。しかし肥大化しすぎて末端の事が分からなくなり、決められない経営が企業をダメにしている。



連日書いてきた霞ヶ関批判も同じであり、霞ヶ関も肥大化しすぎて管理部門ばかりが大きくなり、末端の行政の事が分からなくなって来ている。高度成長時代なら組織も拡大して管理職もそれだけ必要ですが、低成長になると組織の縮小などで管理職は少なくてすむが、いわゆる中高年社員は管理職しかいらなくなる。年功序列組織では降格や万年平社員の存在を許さないから、中高年社員は無駄な組織を作って雇用を守ってきた。



しかし、グローバル社会になって電気や自動車といった大会社も、海外との競争に晒されて大赤字を出すようになって来た。そなると現場のリストラは進んだが本社のリストラが進んでいなかったが、パナソニックなどついに本社のリストラにかかり始めた。7000人いた本社社員を数百人にするということですが、6000人の本社勤務社員はどこに行くのだろうか?



今日は銀行に行ってきたのですが、超一流の大銀行でも女子社員は全員中年社員になっていた。私が現役の頃は高卒や大卒の新卒社員ばかりでしたが、それだけ若い新卒のホワイトカラーの仕事場がなくなってきている。IT化が進んで事務の仕事に人手が要らなくなったからですが、一流大企業でも本社に社員がそんなにいなくても務まる様になってきたのだろう。



今時4年制の大学を出てもそれにふさわしい仕事は無くなって来ている。特に新卒の女子は就職が厳しいだろう。昔ならお茶汲みやコピー取りなどでもOLは職場の花として尊重されましたが今ではそんな時代ではない。しかしながら大学では相変わらず大企業の事務職員を養成するような教育であり、有名企業に新卒者の就職希望が殺到する。



教育と現場のミスマッチが、就職難や就職に失敗した若い人がフリーターや引きこもりになってしまっている。4年制の大学を出て大企業に就職する事が目標のコースになっていましたが、パナソニックの大リストラを見れば分かるようにホワイトカラーの仕事はごく一部になってしまっている。アメリカでは優秀な学生ほど独立起業していますが、日本もそうならざるを得ないのだろう。



このように民間企業では、パナソニックのような一流大企業でも時代の変化に晒されて対応力が求められている。そうしなければパナソニックやソニーといった会社でも潰れるだろう。さらに変化を求められているのが霞ヶ関と公立学校だろう。霞ヶ関の堕落はずっと書いてきましたが中央から地方への分散が求められている。公立学校は、いじめ自殺問題が連日ニュースになっていますが、競争が無いから学校が堕落して学級崩壊まで起きてしまった。



学校教育も腐敗堕落すれば潰れるようにしなければ、学級崩壊やいじめ自殺などの問題は解決しないだろう。公立学校の問題は教師の質的な低下が生徒の反乱を起こす要因になっているのだろう。私立学校なら悪い評判が立てば生徒が集まらなくなり倒産する。生徒達は本能的に今の学校教育が現実社会からかけ離れている事を知って反乱を起こしているのだ。パナソニックの教訓は霞ヶ関や公立学校の改革にも共通する問題だろう。

大津市中学生自殺事件に思う事

戦後の日本が「常識」としてきたことは、実はとんでもない錯覚でしかない、ということです。
私達はその錯覚をあたかも「常識」であるかのように刷り込まれてきた。

東野圭吾の小説に、「さまよう刃」というものがあります。
映画化もされた小説なので、お読みになられた方も多いかと思います。

この小説は、娘を強姦のうえ殺害された父親が、犯人に対して復讐するのは是か非かということをテーマとした小説でした。


小説の中で、父親は、グループの少年の家で、嫌がる娘さんがありとあらゆる恥ずかしめを受け、暴行されたときの模様を撮影したビデオを観てしまう。
これは死にまさる屈辱であり、怒りです。
そして父親は、犯人グループの少年たちへの復讐を誓う。
けれど、復讐をし、加害者を殺害すれば殺人罪です。未遂でも殺人未遂です。
復讐阻止のために、刑事たちは父親を探しまわる。
父親の復讐は成就せず、犯人の少年たちは、軽い罪に終わる、というあらすじです。

この小説がテーマとしたのは、法と正義というものと、子を愛する父親の情念と、この世でいったい何が大切なのだろうかというテーマです。

基本にあるのは、どんな理由があれ、復讐はいけないことだという戦後日本の常識と、それだけでは決して納得できない親として、あるいは人としての怒り、あるいは情の問題です。

私達戦後教育を受けて育った現代日本人は、こうしたケースにおいても、やはり多くの人が、「報復や復讐は、たとえそれが道義的に理解に足るものであったとしても、いけないことである」、「殺人は殺人であり、暴力は暴力である。それはいかなる理由があれ、してはならない、やってはならないことである」ということが一般的社会通念になっています。

復讐や暴力は「野蛮な行為」であり、法治国家では、それは決して許されない。
それが戦後日本人の常識となっています。

けれど、本当にそうなのでしょうか。
それでいいのでしょうか。

加害者は警察によってその人権が守られ、被害者は、ただただ泣き寝入りしなければならない。
実の娘に乱暴をされ、しかも殺害までされて、それでもなお「暴力はいけない」「復讐はイケナイ」ということは、本当に社会の正義といえるものなのか。
いったい何が正義で、何が正しいことなのか。
戦後教育を受けた私達現代日本人にとっては、これは「たいへんに難しい問題」となっているのではないかと思います。

おそらく、この問題について議論を始めたら、賛否両論せめぎあって答えを出すことができない。
それが戦後日本なのであろうと思います。

けれど本当にそうなのでしょうか。
それは、悩むべき問題なのでしょうか。
娘を陵辱され、殺害までされて、それでも泣き寝入りをすることが社会正義なのでしょうか。
そもそも、これは、そんなに「むつかしい」問題なのでしょうか。

実は、先般、米国のTIME誌が、実際に米国内で起きた事件を題材として、極めて単純明快に、この問題について答えを出しています。

http://healthland.time.com/2012/06/20/why-a-texas-dad-who-killed-his-daughters-alleged-rapist-wont-face-charges/

紹介されている事件は、テキサス州の牧場の馬小屋で、性的暴行を受けそうになった娘をたすけるために、父親が素手で加害者の男性を撲殺した、というものです。

この事件について、米国の大陪審は、父親を完全無罪としました。

さらに父親は、一切の罪に問われない、と判決しています。

TIME誌は、「子どもは自分を守れない。もしこの事件において父親が犯罪を犯したとするならば、多くの父親が子どもを守るために刑務所に行く」と、判決内容を全面的に支持している。

さらに読者の声として、
「ディズニーランドの生涯パスポートをお父さんに与えるべき」
「完全に賛成、当然だ」などを紹介しています。

さらに経済専門誌フォーブスさえも、
「自分の5歳の娘が襲われてたら、犯人を殺すほどの力はないかもしれないですけど、飛びかかって犯人の目玉を頭からえぐりとろうとするのは間違いない」という記事を掲載しています。

日本でこの手の話題に必ず出てくる「犯人の人権が」などという声はどこにもないし、加害者の「そんなつもりじゃなかった」などという言い訳もありません。

徹頭徹尾、一貫して「加害者が悪い」です。
ですから、父親の行為は正当です。
けだし、当然のことと思います。

加害者の「事情」など関係ないのです。
問題は、「被害者がどう感じたか」なのです。

この事件で、加害者の男性は、その娘さんを「殺害」さえしていないし、性的暴行も、未遂に終わっています。
それでも加害者の男性を、父親は爆殺しているのです。

昨今、日本でも、主として在日朝鮮人、在日韓国人による、冷酷無残な連続強姦や女性への性的虐待が、数多く行なわれています。

先日には、フィリピンに留学していた日本人女性が、韓国人男性に酒をのまされた挙げ句、強姦され、処女を奪われた挙げ句、肛門まで犯され患部に裂傷を負わされたという事件もありました。

さらには韓流ドラマに触発されて韓国に旅行した女性が、現地の韓国人男性に強姦されるなどという事件も、数限りなく起こっています。
ある事件では、宿泊ホテルのオーナーが、日本人女性を毎回強姦していて、100種類を超える性具まで用意していた常習犯だったという報道もありました。

いずれも日本のメディアでは一切報道されず、現地の新聞から日本語訳したものが、ネット上で拡散されたものです。

こうした事件が頻繁に起こってさえ、あいも変わらず、日本では、常に被害者が泣き寝入り。
日本国内で起こった事件なら、加害者は手厚く保護され、刑務所で三食昼寝付きの生活を味わい、無料で完璧な医療を施されて身体の健康を回復し、刑期の半分以下の年月で仮出所した挙げ句、今度は通名を取り替えて、再び強姦が繰り返されているありさまです。

それでも、被害に遭っていない多くの日本人は、被害者のことは他人事であり、自分がとりあえず無事ならばそれでいい、といった軽い気持ちでいるし、警察も裁判所も、行政も、教育も、「殺人犯を殺害すれば殺人犯」であり、身内や友人等による報復や復讐は、罪悪であるという思考から抜け出ていません。

それは日本の文化からきているものなのでしょうか。

いいえ、違います。
戦前までの日本社会の思考は、現代の米国と同じです。
「加害者がどう思っていたか」ではなく、常に「被害者がどう感じているのか」を優先し、「正義のために復讐や仇討ちをすることは正義」であるという概念が、一般的社会通念だったのです。

たとえば、日本三大仇討ち物語というものがあります。
(1) 赤穂浪士物語
(2) 曽我兄弟物語
(3) 伊賀越え物語
の3つです。

いずれも、主君や親の敵討ちをする物語です。
なかでも「曽我兄弟の物語」は、江戸時代から人形浄瑠璃や歌舞伎、神楽、義太夫、村芝居の定番だったもので、子供でも知っている日本の常識の物語です。

◇曽我物語
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-601.html

さらに、もっとわかりやすいものとしては、猿蟹合戦、桃太郎の鬼退治、金太郎、一寸法師、スサノオのミコトの八岐大蛇退治など、悪いことをする者に対して報復し復讐するのが、あたりまえの常識だったし、身内や近親者にそれができないなら、身近な者が、当事者に代わって成敗を行なうというのは、まさに世の常識でもあったわけです。

こうした概念が根底にあるから、たとえば学校でイジメっ子がいれば、クラスの正義感の強い子が、立ち上がり、そうしたいじめっ子と大げんかしたし、そもそも弱い者イジメをすることは良くないというのが常識だったのです。

そうした意識が日本人の根底に社会的共通認識としてああったからこそ、たとえば南方の島々においても、何千人もの日本人の若い独身男性が軍人として赴任していながら、ひとりも日本人との混血児が産まれていない。
こんなことは、世界史的にみれば、まさに驚愕の歴史、驚異の奇跡とさえいえることです。

ところが、昨今の日本では、猿蟹合戦や桃太郎はおろか、曽我兄弟の物語など、誰も知らない。
伊賀越え物語となると、知っている人の方がむしろ少ない。

ここまで日本人が、きわめて特殊な考え・・つまり、加害者の人権が優先され、被害者や被害者の遺族がどのように感じるかは関係ないとする考え方・・・にとりつかれるようになった背景としては、ひとつには、戦後のGHQによる徹底したウォーギルドインフォメーションプログラムによる、日本人への洗脳工作があるでしょう。

米国は、日本人が米国に対して報復や復讐をしないよう、それこそ「復讐の意図をもって」日本人を徹底的に骨抜きにする体制をひきました。

また、こうしたGHQの下請け機関として設立された日教組や、まともな思考をする社員や管理職を全員公職追放し、左翼やGHQへの追従者ばかりにされた大手メディアなどが、復讐=悪であるという概念を、日本人に戦後67年間、ずっと毎日刷り込み続けたという背景もあるでしょう。

先日、大津市の13歳の男の子が、いじめによって命を奪われるという事件がありました。
もしこの事件が、日本以外の国、たとえば、米国やフランス、英国などで起こったのなら、いじめの加害者や、それを放置した教師、学校、市教委らは、全員、巨額の賠償金を支払わせられることになったでしょうし、いじめた子供達は、もしかしたら、自殺した児童の親族によって撲殺されたかもしれない。

私達戦後世代は、若い頃、「常識は疑ってかかれ」と教わりました。
古くからのしきたりや、伝統や文化は、人間に不条理を押し付けるものであり、その多くは自由を束縛するものでしなかない。
我々は自由になったのだから、古い着物は脱ぎ捨てて、あたらしい着物を着よう、というのが、いわば常識だった。

けれど、いま思うに、それらはすべて日本解体のためのトラップにすぎず、当時の日本人の若者たちは、まんまとそれに騙され、踊らされていただけだったのではないか、と思うのです。

伝統というものは、人が人として生きるために、さまざまな制約や制限を人に課します。
ひとりひとりが、その制限を守るから、住み良い社会ができあがる。
そして、人道に反した振る舞いをする者に対しては、敢然と立ち向かい、非道をただす。

それが、あたりまえの人としての生き方なのではないかと思うのです。

オウム事件のとき、マインドコントロールという言葉が流行りましたが、あのオウムに破防法さえも適用できなかった日本という国家自体が、戦後シンドロームというマインドコントロールに埋没している。

そのマインドコントロールから、一日も早く目を覚ますこと。
それが、新たな日本を築く土台となると、私は確信しています。

時事寸評 教育者のウソを止めるには

時事寸評 教育者のウソを止めるには
小学校のいじめ、自殺問題があとをたちません。教育はそれが行われる社会に強い影響を受けますから、社会が活発なときには教育も活気のあるものになり、社会が沈滞するとさまざまな問題が起きます。
とくに現在の日本のように首相をはじめとして、マスコミまで「ウソをつく」、「ウソをつかない人を批判する」というような極端な状態の中で教育だけを正常に行うのは至難の業です。
たとえば「約束を守りましょう」と教えようとすると「首相だって約束を守らないじゃないか」と言われますし、「しっかり勉強して偉くなりましょう」と言っても、「偉い人」の具体的な例を挙げることも難しいという状態です。それに「ウソをつかなかったから、事態がこじれたではないか!」マスコミがたたくことも頻繁に行われます。
その中でも原発事故からズッと驚くことが多かった日本の教育界で、子供の自殺を巡った学校と教育委員会のウソの連発は目を覆うばかりです。今日(2012年7月11日)の朝のニュースでは大津市教育委員会、大津市長のミスを盛んに報道していましたが、教育委員会が自殺についての「アンケートはやったけれど、記載されていたことは見ていなかった」という発表には「まだウソを言う習慣が抜けていないな」と思った人が多かったでしょう。
アンケートの内容の中でも自殺にもっとも関係の深い記述が複数あったのですから、見落とすはずもなくハッキリとしたウソでしょう。もしウソではなかったら、こんな非常識なことがどうして起こったかを説明しないと「ウソ」と断定して良いとおもいます。
このブログは「常識で判断できることは、発表などがそれと違っても、その理由を説明しなければ常識で判断したことを正しいとする」という立場をとっています。今日のようにウソを平気で言う「偉い人」がいる場合の国民の自衛手段として認められるという見解です。
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いじめや不祥事の真なる原因は社会の不正、よどみにあります。明るく前向きで、正直な社会にはいじめなどは発生しにくくなるからです。そしてその中心に「取り繕うウソ」があります。
なぜ、教育界はウソをつくのか?それを少し考えてみます。教育現場では常に「正直であれ、約束を守れ」と教えているのですから、その先生方が自らウソをつくことは考えられませんが、それが現実です。

私が本当の意味でウソをつかないようになったのは、40才ぐらいです。それまでも「大きなウソ」というのはつきませんでしたが、「こう言っておけば自分に得になる」とか、「ここは何とかギリギリでしのごう」ともがいたものです。
当時、「ウソをつく」というより、「本当のことをそのまま言う」ということに余り価値を認めていなかった感じがします。突き詰めて言うと「事実を言うことより、物事がうまくいった方が良い」という感じです。今回の野田政権の増税のように「国民との約束を守る」というより「今、財務省の言うことを聞いておいた方が良い」というような判断と同じようなものでした。
このようになるのは、1)誠意ある人生を送ろうと思っていなかった、2)その場が良ければ長期的なことは軽く見ていた、3)本当のことを話したらどうなるか不安だった、の3つの理由があったように思います。
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ところが、だんだんウソを言わない生活になり、今では何でもそのまま言います。そのために、1)自分のことはそのまま言う、2)社会の事もそのまま伝える、3)自分以外の個人(公的な人は別)のことはできるだけ「その人」とわからないように言う、ということを守っています。
とくに、1)相手が回復できないこと(性別、育ち、所属、職業、生活の場所、家族、年齢など)は言わない、2)相手が反撃できなければ言わない、という2つを厳密に守っています。
さて、そのような制限の中で「そのまま言う」という生活をしてみると実に快適でした。なにしろ「前はどう言っただろうか?」とか、「どういうのが有利だろうか?」、「これを言ったら酷い目に遭うのではないか?」などはすべて無く、心のままに言うので快適です。
そして、そんな生活はさらに私に宝物をくれました。それは「いつも心のままに言っても人に好意を持たれるためには、心を綺麗にしておかなければならない」ということを知ったからです。
それからというもの、「自分の考えも正しいかも知れないが、自分と正反対の考えも、同じく正しい」という私の信念や、「自分が考えていることは間違っていることが多い」ということにも気がつきました。
このような経験の中で「本当のことをそのまま言ったらどうなるのだろうか?」という恐怖はすっかりなくなり、人から「武田さんは、あまりにそのまま言う」と言われるようになりました。
このような生活をしていると、「ありのまま」でも「人の信頼を得る」という生活ができるようになり、その結果、ますます「ウソをつく必要がない」という自分になったのです。
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今回の自殺の問題で、私が教育委員会にいましたら、アンケートも含めてそのまま発表したでしょう。そして、それによって咎を受けるならそれはそれで、受け入れたと思います.その方が長い人生では自分の命を大切にすることになると、テレビに映っていたご年配の教育委員の先生にお話をしたかったと思いました。
「教育関係者、先生方、ウソをつかないでそのまま言ってもそれほど怖いことはありません。自分がしたことは仕方が無いので、それを受け入れる方が悔やみもなくなります。」 政治家は余りに周囲がウソで固まっているので、傷が深いのですが、せめて教育界からウソのない社会を作ってもらいたいものです。
ただ、この問題は「学校教育と保護者の関与」という面で、「学校と親が一緒になって教育をする」という視点でも考える必要があるでしょう。

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中部大学武田邦彦
(平成24年7月11日)