知の侮辱(6)・・・温暖化すると南極の氷は増える
知の侮辱(6)・・・温暖化すると南極の氷は増える
地球温暖化はそのスタート自体がアメリカ農業団体の作戦で、学問とか環境問題ではないので、その中に知の侮辱があっても当然かも知れません。むしろ、世界中で日本がCO2を実質的に削減しようとしている唯一の国であることを考えると、「知の問題」として温暖化を取り上げること自体、知の侮辱のようにも思われます。
でも、人間の排出するCO2が地球の温暖化の主要な原因だと考えている科学者が日本に多いことも確かで、それが子供の教育や生活に大きな影響を与えていることも間違いはありません。
たとえば、NHKが映像を流したように「ホッキョクグマが暑いと苦しんでいる」とか「南洋の島、ツバルが沈みかけている」などというような「知の侮辱放送」は日本の子供に大きな影響を与え、結果的には「科学的事実など問題にしなくてよい」という思想を植え付けることになっています。
温暖化報道では科学の基礎的な原理に反することが多かったのですが、その中でも特に「温暖化したら南極の氷が融ける」ということを聞いたとき、私は本当にガッカリしました。そして、「融ける」と思っている人にその理由を聞きましたら、「温度が上がったら氷は融けるんじゃない」と言われて、2度、ガッカリしました。
理科の時間に「融点」というのを教えるのですが、これは「物質は温度が上がったら融けるのではなく、融点で融ける」ということを理解させるのです。
ある意味では、この現象は常識外れでもあります。なんとなく普通に考えると「温度が上がると氷は融ける」と思いがちですが、水(氷)は0℃で、アルミニウムは660℃でというように物質によってある温度で融けるのであり、温度が上がっても融けないという基本的な概念だからです。
また、この場合はIPCCという国連の気候変動(温暖化)の機関が正式な報告書(わずか25ページぐらい)で、「南極の氷の温度は低いので(マイナス40℃)、温暖化しても融けない」と記載しているのに文献も見ないという二重の「知の侮辱」になります。
・・・・・・・・・
私がある関西のテレビにでて「IPCCの書いてあることを紹介」したところ、「異端児・武田邦彦」と言われました。アナウンサーが「申し訳ないですね。異端児なんて言って」と謝ってくれましたが、私は「いえ、学者にとっては異端児はほめ言葉でもあります」と言いました。
しかし、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは、基礎科学から言っても間違いで、IPCCの文献でも否定されているのに、日本ではすでに「赤信号をみんなで渡ったので、それが正しい」ということになっているのです。恐ろしい社会ですね。
そしてやがて、科学的にも文献でも異なることが日本社会に定着すると、今度は科学的に正しいこと、知を尊重する人、文献をしっかり読んでいる人を「異端児」として社会から排斥しようとする・・・それが私がこのシリーズで言いたい「知の侮辱」なのです。
「takeda_20120208no.419-(8:13).mp3」をダウンロード
中部大学武田邦彦
(平成24年2月7日)
地球温暖化はそのスタート自体がアメリカ農業団体の作戦で、学問とか環境問題ではないので、その中に知の侮辱があっても当然かも知れません。むしろ、世界中で日本がCO2を実質的に削減しようとしている唯一の国であることを考えると、「知の問題」として温暖化を取り上げること自体、知の侮辱のようにも思われます。
でも、人間の排出するCO2が地球の温暖化の主要な原因だと考えている科学者が日本に多いことも確かで、それが子供の教育や生活に大きな影響を与えていることも間違いはありません。
たとえば、NHKが映像を流したように「ホッキョクグマが暑いと苦しんでいる」とか「南洋の島、ツバルが沈みかけている」などというような「知の侮辱放送」は日本の子供に大きな影響を与え、結果的には「科学的事実など問題にしなくてよい」という思想を植え付けることになっています。
温暖化報道では科学の基礎的な原理に反することが多かったのですが、その中でも特に「温暖化したら南極の氷が融ける」ということを聞いたとき、私は本当にガッカリしました。そして、「融ける」と思っている人にその理由を聞きましたら、「温度が上がったら氷は融けるんじゃない」と言われて、2度、ガッカリしました。
理科の時間に「融点」というのを教えるのですが、これは「物質は温度が上がったら融けるのではなく、融点で融ける」ということを理解させるのです。
ある意味では、この現象は常識外れでもあります。なんとなく普通に考えると「温度が上がると氷は融ける」と思いがちですが、水(氷)は0℃で、アルミニウムは660℃でというように物質によってある温度で融けるのであり、温度が上がっても融けないという基本的な概念だからです。
また、この場合はIPCCという国連の気候変動(温暖化)の機関が正式な報告書(わずか25ページぐらい)で、「南極の氷の温度は低いので(マイナス40℃)、温暖化しても融けない」と記載しているのに文献も見ないという二重の「知の侮辱」になります。
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私がある関西のテレビにでて「IPCCの書いてあることを紹介」したところ、「異端児・武田邦彦」と言われました。アナウンサーが「申し訳ないですね。異端児なんて言って」と謝ってくれましたが、私は「いえ、学者にとっては異端児はほめ言葉でもあります」と言いました。
しかし、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは、基礎科学から言っても間違いで、IPCCの文献でも否定されているのに、日本ではすでに「赤信号をみんなで渡ったので、それが正しい」ということになっているのです。恐ろしい社会ですね。
そしてやがて、科学的にも文献でも異なることが日本社会に定着すると、今度は科学的に正しいこと、知を尊重する人、文献をしっかり読んでいる人を「異端児」として社会から排斥しようとする・・・それが私がこのシリーズで言いたい「知の侮辱」なのです。
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中部大学武田邦彦
(平成24年2月7日)
知の侮辱(5)・・・被曝:現代人の知恵の彼岸
知の侮辱(5)・・・被曝:現代人の知恵の彼岸
最近の原発の事故に関係することで、もっとも大きな「知の侮辱」は「被曝と健康の関係が学問的に判っている」という「学者」が多かったことです。学問というのはそれを専門とする人がデータや理論で論理的に納得し、定説となったものをくみ上げて作るものですから、ある学者は1年0.1ミリ(ドイツの学者が中心)、ある学者が1年100ミリと1000倍の違いがあって、学問とは言えないのです。
学問と言えない段階のものは、学問的には不明と言うのが学問です。学問は、社会の利害、自分の思想、反原発派が憎らしい、神経質な人がいる・・・などと言うこととは全く無関係で、学問的に被曝と健康の関係が判っていれば明確に答え、判っていなければ判らないと答えるものだからです。
放射線が外部から体を貫くと、たまには遺伝子や体の重要な部分を損傷する可能性があります。また放射線が活性酸素を作り出し、それが体のどこかを酸化する可能性があります。さらにはヨウ素やセシウム、ストロンチウムが体の一部に蓄積し、それが病気の引き金を引く場合もあります。
自然放射線は1年1.5ミリですが、それに何ミリぐらいが加算されると健康にどんな害があるか、カリウムには放射性を出す物もありますが、それとセシウムが入った牛肉とを単にベクレルで比較できるのか?そんなことは学問的には判っていません。研究例があり、調査結果があるに過ぎず、それは相互に大きく異なった結果を与えているからです。
このような場合、「環境を守る」という点では世界での合意があります。この合意は水俣病などの辛い経験をもとに人類が築き上げてきたもので、それを「予防原則」と言います。予防原則はそれ自体が学問と言えるものですが、「科学的に判らないが、危険の可能性もある場合、社会的合意によって規制することができる」というもので、論理的には立派な学問的成果です。
被曝と健康の関係は学問的に判っていないのですから、社会的に必要なら予防原則で規制するわけで、それが「1年1ミリ」です。もちろん、1年1ミリでも「膨大な実験データと調査結果」に基づいて「詳細な被曝計算」をするのですが、実はそれらは「学問」ではなく、「技術」に属することなのです。
つまり、1年0.1ミリまで安全という学者のグループと、1年100ミリまで安全というグループがいるのですから、当然、学問として結論が出ていないのですが、たとえば、それらのデータの平均値を取るとか、安全側を採用するなど、一応のデータに基づくことはできるのです。
・・・・・・・・・
科学が社会の信用を得るためには、科学者の発言が信用できるものでなければなりません。それは若干、慎重なことになるかも知れず、生産現場や医療現場はそんなことは言ってられないと思いますが、それは現場に限ることで、現場でもないところに非科学的なことをそのまま伝えるのは誤解を招く原因になります。
現在、被曝を心配している一般の人に対して、原子力や放射線の学者は次のように言わなければならないでしょう。
「残念ながら多くの学説はありますが、まだ学問の段階には至っていないので、どのぐらい被曝したらどうなるということは判っていないのです。そこで、社会的には予防原則を採用して「外部被曝と内部被曝の合計が1年1ミリ」を被曝限度としています。それが現在の人間の限界で、日本の法律もすべてこの基準を適応していますし、それから食品や土壌などの1キロ何ベクレルという基準も作っています。」
学問は圧倒的な数のデータがあり、再現性があれば「相関関係(何かの変数を変えると結果が変わる)」だけでも、なんとか学問になることがありますが、普通は「相関関係」だけではなく、その関係が何らかの科学的な「因果関係(原因と結果が論理的に明確であること)」を持たなければなりません。
その意味で、被曝と健康の問題は私たちの現在の学問が及ばざるところで、まだ「彼岸」にあると言えるでしょう。私が原子力委員会の研究開発部会で原子力の安全研究を促進するように進言したのはこの様な認識だったからです。
「なんだか判らないけれど、このような傾向だ」というのはまったく学問ではないので、「どのぐらい被曝したら、患者さんがこの程度でた」というデータはあまり役に立たないのです。このことを温暖化の時、「CO2が増加すると気温が高くなる」という科学者が多かったので、それなら「武田の年齢が増加すると気温は高くなっているのですが」と冷やかしたことがあります。
今度の福島の事故で、私は多くの方が学問とはどういうものか、なにが科学的でなにが非科学的かということを考えていただいたのはとても良かったと思っています。でも、学問的な結論もないのに「大丈夫」などと言い、5歳の子供が大人を信じて被曝して15歳で発病したら私たちはどうしてそれを償うことができるのでしょうか? 私たちは判らないのですから、謙虚で慎重でなければなりません。子供は私たちを信じているのです。
「takeda_20120207no.417-(8:17).mp3」をダウンロード
中部大学武田邦彦
(平成24年2月6日)
最近の原発の事故に関係することで、もっとも大きな「知の侮辱」は「被曝と健康の関係が学問的に判っている」という「学者」が多かったことです。学問というのはそれを専門とする人がデータや理論で論理的に納得し、定説となったものをくみ上げて作るものですから、ある学者は1年0.1ミリ(ドイツの学者が中心)、ある学者が1年100ミリと1000倍の違いがあって、学問とは言えないのです。
学問と言えない段階のものは、学問的には不明と言うのが学問です。学問は、社会の利害、自分の思想、反原発派が憎らしい、神経質な人がいる・・・などと言うこととは全く無関係で、学問的に被曝と健康の関係が判っていれば明確に答え、判っていなければ判らないと答えるものだからです。
放射線が外部から体を貫くと、たまには遺伝子や体の重要な部分を損傷する可能性があります。また放射線が活性酸素を作り出し、それが体のどこかを酸化する可能性があります。さらにはヨウ素やセシウム、ストロンチウムが体の一部に蓄積し、それが病気の引き金を引く場合もあります。
自然放射線は1年1.5ミリですが、それに何ミリぐらいが加算されると健康にどんな害があるか、カリウムには放射性を出す物もありますが、それとセシウムが入った牛肉とを単にベクレルで比較できるのか?そんなことは学問的には判っていません。研究例があり、調査結果があるに過ぎず、それは相互に大きく異なった結果を与えているからです。
このような場合、「環境を守る」という点では世界での合意があります。この合意は水俣病などの辛い経験をもとに人類が築き上げてきたもので、それを「予防原則」と言います。予防原則はそれ自体が学問と言えるものですが、「科学的に判らないが、危険の可能性もある場合、社会的合意によって規制することができる」というもので、論理的には立派な学問的成果です。
被曝と健康の関係は学問的に判っていないのですから、社会的に必要なら予防原則で規制するわけで、それが「1年1ミリ」です。もちろん、1年1ミリでも「膨大な実験データと調査結果」に基づいて「詳細な被曝計算」をするのですが、実はそれらは「学問」ではなく、「技術」に属することなのです。
つまり、1年0.1ミリまで安全という学者のグループと、1年100ミリまで安全というグループがいるのですから、当然、学問として結論が出ていないのですが、たとえば、それらのデータの平均値を取るとか、安全側を採用するなど、一応のデータに基づくことはできるのです。
・・・・・・・・・
科学が社会の信用を得るためには、科学者の発言が信用できるものでなければなりません。それは若干、慎重なことになるかも知れず、生産現場や医療現場はそんなことは言ってられないと思いますが、それは現場に限ることで、現場でもないところに非科学的なことをそのまま伝えるのは誤解を招く原因になります。
現在、被曝を心配している一般の人に対して、原子力や放射線の学者は次のように言わなければならないでしょう。
「残念ながら多くの学説はありますが、まだ学問の段階には至っていないので、どのぐらい被曝したらどうなるということは判っていないのです。そこで、社会的には予防原則を採用して「外部被曝と内部被曝の合計が1年1ミリ」を被曝限度としています。それが現在の人間の限界で、日本の法律もすべてこの基準を適応していますし、それから食品や土壌などの1キロ何ベクレルという基準も作っています。」
学問は圧倒的な数のデータがあり、再現性があれば「相関関係(何かの変数を変えると結果が変わる)」だけでも、なんとか学問になることがありますが、普通は「相関関係」だけではなく、その関係が何らかの科学的な「因果関係(原因と結果が論理的に明確であること)」を持たなければなりません。
その意味で、被曝と健康の問題は私たちの現在の学問が及ばざるところで、まだ「彼岸」にあると言えるでしょう。私が原子力委員会の研究開発部会で原子力の安全研究を促進するように進言したのはこの様な認識だったからです。
「なんだか判らないけれど、このような傾向だ」というのはまったく学問ではないので、「どのぐらい被曝したら、患者さんがこの程度でた」というデータはあまり役に立たないのです。このことを温暖化の時、「CO2が増加すると気温が高くなる」という科学者が多かったので、それなら「武田の年齢が増加すると気温は高くなっているのですが」と冷やかしたことがあります。
今度の福島の事故で、私は多くの方が学問とはどういうものか、なにが科学的でなにが非科学的かということを考えていただいたのはとても良かったと思っています。でも、学問的な結論もないのに「大丈夫」などと言い、5歳の子供が大人を信じて被曝して15歳で発病したら私たちはどうしてそれを償うことができるのでしょうか? 私たちは判らないのですから、謙虚で慎重でなければなりません。子供は私たちを信じているのです。
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中部大学武田邦彦
(平成24年2月6日)
知の侮辱(4)・・・イエス・キリストの怒り
知の侮辱(4)・・・イエス・キリストの怒り
若い頃、聖書を読んでそのどこにも珠玉のような言葉が満ちあふれていることにビックリしたことを思い出します。まさに神の言葉なのでしょう。
その中に、普段は穏やかなイエス・キリストが怒りに燃えることが書かれています。それは「神を心から信じるか、それとのよい子のフリをするためか」が問われる場面で、腐敗した祈りの場などがそれにあたるようです。
聖書のその場面に強い印象を受けた私は、その後、なにか自らの学問や教育の信念に反することが目の前で行われているのに、腹が立たない自分を情けなく思うことが多くなりました。
たとえば、前々回に書いた「栄のCO2測定」ですが、このように科学をトリックに使うことを知った限りは、担当室長を罵倒し、自分が一人でいって栄のCO2測定器を取り外し、警察から器物損壊で逮捕されなければならない・・・そうしないと私の学問や教育の信念はなんだったのか?という疑問がわくからです。
このシリーズを「知の侮辱」と名付けて始めました。確かに、現代の日本には「知」を侮辱することが白昼堂々と行われ、それは科学者である私には大きなストレスになっています。でも、そう言う私も「知の侮辱」に対して徹底的な行動を取っているわけではなく、イエス・キリストのように知を侮辱する人や物事に対して、自らを捨てて行動にでなければならないと恥ずかしく思います。
いつも、さらにもう一歩激しくでるべきか?と迷うのですが、あるところで引き返します。その点では所詮、自分も人間だから利権をあさって知を侮辱している人とそれほど変わらないと恥ずかしく思うこともあります。
・・・・・・・・・
この頃の学生はおとなしくなりましたから、先生にくってかかるような勢いのある学生はあまりいないのですが、それでも時々、「先生っ!そんなこと間違っていますっ!」と激しく迫る学生もいます。そんな学生がいるとうれしくなります。
そんなとき、事実や論理、科学としての考え方を説明するのが普通ですが、あまりに激しく納得しないときには、イエス・キリストやソクラテスの話をすることがあります。
「確かに君の言うことは正しいかも知れない。でも、現代人が誕生してから1,2を争う立派な人といえばイエス・キリストやソクラテスだが、その人たちはいずれも死刑にあっている。君の言うことが正しいのかも知れないが、世の中とあまりに違うときには死刑になるのだろうね」
・・・・・・・・・
でも、思い返せばそれが人間ですし、人間社会の中でしか生きることはできないのですから、ここは東洋的にお釈迦様の「中庸」で行くのが良いのでしょう。「知」を盲目的に信じるのでもなく、「知」を侮辱するのでもなく、尊敬し、利用していくのが私たちの知恵というものだと思います。
私が重要だと思う順序があります。第一に「日本の子供」、第二に「日本の土地」、そして第三に「日本のコメ」です。子供、土地、コメの上に「日本」とつけているのは私の力量によるもので、到底「人類」というのは私の視野に入れることができないからです。
イエス・キリストは「神の思し召しのまま」と十字架につき、ソクラテスは「悪法も法なり」と弟子に教えて毒杯を口にしました。科学者である私は「私が正しいと思っていることは間違っている」と言うことが唯一の信念なので、到底、それほど強い行動に出ることはできません。
このシリーズではイエス・キリストやソクラテスの影を遠くに拝みながら、なんとか一つ一つの侮辱を、明日の子供たちのために整理をしていきたいと思っています。
「takeda_20120206no.415-(8:07).mp3」をダウンロード
中部大学武田邦彦
(平成24年2月6日(月))
若い頃、聖書を読んでそのどこにも珠玉のような言葉が満ちあふれていることにビックリしたことを思い出します。まさに神の言葉なのでしょう。
その中に、普段は穏やかなイエス・キリストが怒りに燃えることが書かれています。それは「神を心から信じるか、それとのよい子のフリをするためか」が問われる場面で、腐敗した祈りの場などがそれにあたるようです。
聖書のその場面に強い印象を受けた私は、その後、なにか自らの学問や教育の信念に反することが目の前で行われているのに、腹が立たない自分を情けなく思うことが多くなりました。
たとえば、前々回に書いた「栄のCO2測定」ですが、このように科学をトリックに使うことを知った限りは、担当室長を罵倒し、自分が一人でいって栄のCO2測定器を取り外し、警察から器物損壊で逮捕されなければならない・・・そうしないと私の学問や教育の信念はなんだったのか?という疑問がわくからです。
このシリーズを「知の侮辱」と名付けて始めました。確かに、現代の日本には「知」を侮辱することが白昼堂々と行われ、それは科学者である私には大きなストレスになっています。でも、そう言う私も「知の侮辱」に対して徹底的な行動を取っているわけではなく、イエス・キリストのように知を侮辱する人や物事に対して、自らを捨てて行動にでなければならないと恥ずかしく思います。
いつも、さらにもう一歩激しくでるべきか?と迷うのですが、あるところで引き返します。その点では所詮、自分も人間だから利権をあさって知を侮辱している人とそれほど変わらないと恥ずかしく思うこともあります。
・・・・・・・・・
この頃の学生はおとなしくなりましたから、先生にくってかかるような勢いのある学生はあまりいないのですが、それでも時々、「先生っ!そんなこと間違っていますっ!」と激しく迫る学生もいます。そんな学生がいるとうれしくなります。
そんなとき、事実や論理、科学としての考え方を説明するのが普通ですが、あまりに激しく納得しないときには、イエス・キリストやソクラテスの話をすることがあります。
「確かに君の言うことは正しいかも知れない。でも、現代人が誕生してから1,2を争う立派な人といえばイエス・キリストやソクラテスだが、その人たちはいずれも死刑にあっている。君の言うことが正しいのかも知れないが、世の中とあまりに違うときには死刑になるのだろうね」
・・・・・・・・・
でも、思い返せばそれが人間ですし、人間社会の中でしか生きることはできないのですから、ここは東洋的にお釈迦様の「中庸」で行くのが良いのでしょう。「知」を盲目的に信じるのでもなく、「知」を侮辱するのでもなく、尊敬し、利用していくのが私たちの知恵というものだと思います。
私が重要だと思う順序があります。第一に「日本の子供」、第二に「日本の土地」、そして第三に「日本のコメ」です。子供、土地、コメの上に「日本」とつけているのは私の力量によるもので、到底「人類」というのは私の視野に入れることができないからです。
イエス・キリストは「神の思し召しのまま」と十字架につき、ソクラテスは「悪法も法なり」と弟子に教えて毒杯を口にしました。科学者である私は「私が正しいと思っていることは間違っている」と言うことが唯一の信念なので、到底、それほど強い行動に出ることはできません。
このシリーズではイエス・キリストやソクラテスの影を遠くに拝みながら、なんとか一つ一つの侮辱を、明日の子供たちのために整理をしていきたいと思っています。
「takeda_20120206no.415-(8:07).mp3」をダウンロード
中部大学武田邦彦
(平成24年2月6日(月))