南京事件(1)・・・国民同士の信頼関係はどうしたらできるのか?
南京事件(1)・・・国民同士の信頼関係はどうしたらできるのか?
中国のことわざに「遠交近攻」というのがあるように、近い国というのは難しいもので「戦争が普通で平和は珍しい」ということです。日本は四面が海なので、朝鮮や中国、ロシアなどの隣国とは歴史的にもそれほど争いがなく、平和だったと言えるでしょう。
それでも、なにしろお隣ですから勢いが良くなると相手の国に進入したくなるもので、古い時代は中国や朝鮮の方が先に発展しましたから、たとえば9世紀などは新羅という朝鮮の国が7回も日本にちょっかいを出してきましたし、13世紀には有名な「元寇」があり、中国と朝鮮の軍隊が2度に渡って大規模な戦争を仕掛けてきました。
このときに占領された対馬・壱岐などは住民が皆殺しにあったとされています.日本が本格的に攻められたのはこの元寇が最初ですから、当時の鎌倉幕府は仰天し、必死で防ぎ、その影響は日本社会を変えるほどだったのです
ところが、15世紀過ぎから少しずつ今度は日本の勢いが強くなり、16世紀には豊臣秀吉の朝鮮進出があり、結果的には失敗しましたが、朝鮮に大きな打撃を与えました。それから暫く徳川時代は日本が鎖国をしたのでなにもなかったのですが、19世紀の終わりから植民地時代と帝国主義の時代に日本が朝鮮、台湾、中国の一部に進出したのです.
つまり、5世紀から15世紀までの1000年間は中国や朝鮮が日本を攻め、16世紀から20世紀の500年間は日本が両国を攻めたという歴史的な関係だったのです.このような歴史と、名古屋の河村市長が従来から発言しているのは、「中国の南京で30万人が日本軍に殺されたというのは本当だろうか?」という疑問と、「日本と中国の関係を良くするには、どうしたらよいか」ということはどういう関係でしょうか?
私は次のように考えます. もし中国や韓国と日本が「良い関係」を希望するなら、あまり過度に過去のことを問題にして、自分の国が被害を受けたと強調しない方が良いと思います.「遠交近攻」という中国の言葉はそれを言っていて、お隣同士は領土問題もあれば、人の行き来もある、経済的にも関係が深いのですから、どうしても諍い(いさかい)が起こります.
だから、もっとも良いのは「過去のことをあまり問題にしない」、私の言い方では「昨日は晴れ(過去にイヤなことがあっても、過去は2度と来ないから、「晴れている」と思えば思える)」と思うことですが、それでは心が晴れないというなら、できるだけ史実に近いことを明らかにしなければなりません.
日本軍が南京に侵攻したとき、日本軍と中国軍の間にそれまでの戦争にはない事態が発生しました。それが「敗残兵」、「便衣兵」、「民衆」の区別の問題です.
戦争というのは「兵隊と兵隊」が殺し合い、多く殺した方が勝ちという日常的には考えられない非常識なもので、多くの人を殺した将軍が英雄になるという実にバカらしいものです。
普通の生活なら多くの人を殺したら「殺人鬼」ですから、「鬼」と言われるのですが、戦争の場合は勝った方が英雄で、多くは戦争が終わったらら「王様」や「大統領」になることもあります。つまり戦争というのは普通の時とは違う非常識な時間なのです。
ただ戦争にはルールがあり、その一つに「殺し合うときにはお互いに軍服を着る」と言うことでした。何しろ「多くを殺した方が勝ち」という変なことですから、それをする人は一般の人と違って、特別な格好をしておかないと判らないからです。
軍人が勇ましい軍服を着て突撃するのは、「自分はおまえを殺すから、おまえも俺を殺して良い」ということなのです。
[
Bandicam_20120309_073030127]
この絵はプロイセンの歩兵が戦場で進軍する様子ですが、いくつかの特徴があります。まず「戦場」であること、「軍服」を着ていること、「軍旗」を掲げていることです。つまり、戦争とは「特別な場所で、一般人と区別のできる服装をして、自分がどの国に所属しているか明確にする」という3つの条件が必要なのです.
これによって「一般人に戦争の被害が及ばないようにする」ということが可能だったのです.つまり「戦争は整然と行わなければならないし、殺し合うのは軍人同士でなければならない。戦場で戦っている間は殺すのは犯罪ではないが、戦闘が終わったり負傷したり、捕虜になったりしたら殺してはいけない」というようなルールもあったのです.
ところが、南京侵攻の時にはこの「軍服」、「正規兵」などに混乱が生じました。中国軍の兵士が捕虜になって殺されるのを恐れて軍服を脱いだり、住民がその軍服を盗んで着たり、普通の服を着た兵士(ゲリラ、便衣兵)がゲリラ攻撃をしたり、いろいろなことが起こりました。その結果、南京市街戦の後、混乱した戦場で軍人か民間人か判らない中国人が1000人ぐらいから最大で1万5000人ぐらい銃で撃たれて死亡したという記録があるのです。
この問題は日本と中国や朝鮮のこれまでの歴史の中で「特筆しなければならないもの」なのでしょうか? それについて、次回に少し整理をしてみたいと思います.
中部大学武田邦彦
(平成24年3月9日)
「takeda_20120309no.452-(8:58).mp3」をダウンロード
中国のことわざに「遠交近攻」というのがあるように、近い国というのは難しいもので「戦争が普通で平和は珍しい」ということです。日本は四面が海なので、朝鮮や中国、ロシアなどの隣国とは歴史的にもそれほど争いがなく、平和だったと言えるでしょう。
それでも、なにしろお隣ですから勢いが良くなると相手の国に進入したくなるもので、古い時代は中国や朝鮮の方が先に発展しましたから、たとえば9世紀などは新羅という朝鮮の国が7回も日本にちょっかいを出してきましたし、13世紀には有名な「元寇」があり、中国と朝鮮の軍隊が2度に渡って大規模な戦争を仕掛けてきました。
このときに占領された対馬・壱岐などは住民が皆殺しにあったとされています.日本が本格的に攻められたのはこの元寇が最初ですから、当時の鎌倉幕府は仰天し、必死で防ぎ、その影響は日本社会を変えるほどだったのです
ところが、15世紀過ぎから少しずつ今度は日本の勢いが強くなり、16世紀には豊臣秀吉の朝鮮進出があり、結果的には失敗しましたが、朝鮮に大きな打撃を与えました。それから暫く徳川時代は日本が鎖国をしたのでなにもなかったのですが、19世紀の終わりから植民地時代と帝国主義の時代に日本が朝鮮、台湾、中国の一部に進出したのです.
つまり、5世紀から15世紀までの1000年間は中国や朝鮮が日本を攻め、16世紀から20世紀の500年間は日本が両国を攻めたという歴史的な関係だったのです.このような歴史と、名古屋の河村市長が従来から発言しているのは、「中国の南京で30万人が日本軍に殺されたというのは本当だろうか?」という疑問と、「日本と中国の関係を良くするには、どうしたらよいか」ということはどういう関係でしょうか?
私は次のように考えます. もし中国や韓国と日本が「良い関係」を希望するなら、あまり過度に過去のことを問題にして、自分の国が被害を受けたと強調しない方が良いと思います.「遠交近攻」という中国の言葉はそれを言っていて、お隣同士は領土問題もあれば、人の行き来もある、経済的にも関係が深いのですから、どうしても諍い(いさかい)が起こります.
だから、もっとも良いのは「過去のことをあまり問題にしない」、私の言い方では「昨日は晴れ(過去にイヤなことがあっても、過去は2度と来ないから、「晴れている」と思えば思える)」と思うことですが、それでは心が晴れないというなら、できるだけ史実に近いことを明らかにしなければなりません.
日本軍が南京に侵攻したとき、日本軍と中国軍の間にそれまでの戦争にはない事態が発生しました。それが「敗残兵」、「便衣兵」、「民衆」の区別の問題です.
戦争というのは「兵隊と兵隊」が殺し合い、多く殺した方が勝ちという日常的には考えられない非常識なもので、多くの人を殺した将軍が英雄になるという実にバカらしいものです。
普通の生活なら多くの人を殺したら「殺人鬼」ですから、「鬼」と言われるのですが、戦争の場合は勝った方が英雄で、多くは戦争が終わったらら「王様」や「大統領」になることもあります。つまり戦争というのは普通の時とは違う非常識な時間なのです。
ただ戦争にはルールがあり、その一つに「殺し合うときにはお互いに軍服を着る」と言うことでした。何しろ「多くを殺した方が勝ち」という変なことですから、それをする人は一般の人と違って、特別な格好をしておかないと判らないからです。
軍人が勇ましい軍服を着て突撃するのは、「自分はおまえを殺すから、おまえも俺を殺して良い」ということなのです。
[
Bandicam_20120309_073030127]この絵はプロイセンの歩兵が戦場で進軍する様子ですが、いくつかの特徴があります。まず「戦場」であること、「軍服」を着ていること、「軍旗」を掲げていることです。つまり、戦争とは「特別な場所で、一般人と区別のできる服装をして、自分がどの国に所属しているか明確にする」という3つの条件が必要なのです.
これによって「一般人に戦争の被害が及ばないようにする」ということが可能だったのです.つまり「戦争は整然と行わなければならないし、殺し合うのは軍人同士でなければならない。戦場で戦っている間は殺すのは犯罪ではないが、戦闘が終わったり負傷したり、捕虜になったりしたら殺してはいけない」というようなルールもあったのです.
ところが、南京侵攻の時にはこの「軍服」、「正規兵」などに混乱が生じました。中国軍の兵士が捕虜になって殺されるのを恐れて軍服を脱いだり、住民がその軍服を盗んで着たり、普通の服を着た兵士(ゲリラ、便衣兵)がゲリラ攻撃をしたり、いろいろなことが起こりました。その結果、南京市街戦の後、混乱した戦場で軍人か民間人か判らない中国人が1000人ぐらいから最大で1万5000人ぐらい銃で撃たれて死亡したという記録があるのです。
この問題は日本と中国や朝鮮のこれまでの歴史の中で「特筆しなければならないもの」なのでしょうか? それについて、次回に少し整理をしてみたいと思います.
中部大学武田邦彦
(平成24年3月9日)
「takeda_20120309no.452-(8:58).mp3」をダウンロード
専門家が立ち上がって欲しい(4) ビジネスマンも「社会的責任」を
専門家が立ち上がって欲しい(4) ビジネスマンも「社会的責任」を
医師、農家、エンジニアに呼びかけてきたが、次には産業界に呼びかけたい。かつて産業は「悪徳商人」だった。何をしても良い、ただ儲ければよい、巨大な政商でも、死の商人でも、公害を出しても、とにかく儲ければそれが産業だという時代もあった。
でも、それらの反省を活かして1980年代には「企業の社会的責任」が問われるようになった。当然ではあるが企業はお客さん(社会)がその製品やサービスを買ってくれるから成立するのであり、決して「国」や「代官」が支えているのではないからだ。
大会社の社長が、「一商人」としてではなく、国の重要な委員になったりして社会的に尊重されるようになったのも、企業の社会的責任と日本を支える重要な立場を認識したと見られたからである。また、ビジネスマンも単なる商人の番頭や丁稚ではなく、日本を構成する重要な専門職と思う。そしてそのように活動をして欲しいと念願している。
・・・・・・・・・
ところが1990年のバブル崩壊の後、わずかに続いた「企業の社会的責任」は消え失せ、私が指摘している「リサイクル、ダイオキシン、温暖化」の魔術を使って「企業イメージを上げ、補助金をもらう」というシステムに組み込まれていった。
その他にも、社長が1億円を超える年俸を得たり、不安定な雇用を創り出して社会的な不安を与えたり、日本国内に職が少ないのに収益を上げることだけを目的として海外に進出したりとおよそ企業の社会的責任を果たすことなく今日まできた。
今、日本企業は自らの首を絞めている。過度な環境規制による経費増大、夢のないサラリーマンや技術者の創造力低下、補助金事業による将来展開の消失など「生きている企業」として致命的な状況が続いている。
その典型的なものの一つが「節電」を呼びかけながら「電気自動車に補助金をもらう」という現象であり、社長が1億円を超える年俸をもらう大企業が「自分だけが良ければよい」という露骨な姿勢をとっているのである。
・・・・・・・・・
経団連会長が原発の推進を表明している。もし企業がお金に責任を持つなら、東電の不始末を経団連が金を出して補償すべきである。
福島の子供たちを疎開させるための土地と学校を作り、福島の土地を除染して「健康で文化的な生活」ができる土地を取り戻し、福島の人の損害を補填し、電気料金をアメリカ並みに今の電気料金の2分の1まで下げ、そして「原発再開」を表明するべきである。
「俺は何もしない。全部、国民が金を出せ。俺は儲けるだけだ」というのでは、産業界は国民の支持を得られない。ビジネスマンが専門職として社会の尊敬を受けるには、その社会的責任について深く洞察し、行動に移すことだ。結局、収益は日本が繁栄し、倫理的に正しい社会ができないと上がらないと考えられる。
是非、この際、日本人の一人として産業人、ビジネスマンもまた、「健全な日本、善良な国民」に帰って欲しい。
中部大学武田邦彦
「takeda_20120307no.448-(6:50).mp3」をダウンロード
(平成24年3月5日)
医師、農家、エンジニアに呼びかけてきたが、次には産業界に呼びかけたい。かつて産業は「悪徳商人」だった。何をしても良い、ただ儲ければよい、巨大な政商でも、死の商人でも、公害を出しても、とにかく儲ければそれが産業だという時代もあった。
でも、それらの反省を活かして1980年代には「企業の社会的責任」が問われるようになった。当然ではあるが企業はお客さん(社会)がその製品やサービスを買ってくれるから成立するのであり、決して「国」や「代官」が支えているのではないからだ。
大会社の社長が、「一商人」としてではなく、国の重要な委員になったりして社会的に尊重されるようになったのも、企業の社会的責任と日本を支える重要な立場を認識したと見られたからである。また、ビジネスマンも単なる商人の番頭や丁稚ではなく、日本を構成する重要な専門職と思う。そしてそのように活動をして欲しいと念願している。
・・・・・・・・・
ところが1990年のバブル崩壊の後、わずかに続いた「企業の社会的責任」は消え失せ、私が指摘している「リサイクル、ダイオキシン、温暖化」の魔術を使って「企業イメージを上げ、補助金をもらう」というシステムに組み込まれていった。
その他にも、社長が1億円を超える年俸を得たり、不安定な雇用を創り出して社会的な不安を与えたり、日本国内に職が少ないのに収益を上げることだけを目的として海外に進出したりとおよそ企業の社会的責任を果たすことなく今日まできた。
今、日本企業は自らの首を絞めている。過度な環境規制による経費増大、夢のないサラリーマンや技術者の創造力低下、補助金事業による将来展開の消失など「生きている企業」として致命的な状況が続いている。
その典型的なものの一つが「節電」を呼びかけながら「電気自動車に補助金をもらう」という現象であり、社長が1億円を超える年俸をもらう大企業が「自分だけが良ければよい」という露骨な姿勢をとっているのである。
・・・・・・・・・
経団連会長が原発の推進を表明している。もし企業がお金に責任を持つなら、東電の不始末を経団連が金を出して補償すべきである。
福島の子供たちを疎開させるための土地と学校を作り、福島の土地を除染して「健康で文化的な生活」ができる土地を取り戻し、福島の人の損害を補填し、電気料金をアメリカ並みに今の電気料金の2分の1まで下げ、そして「原発再開」を表明するべきである。
「俺は何もしない。全部、国民が金を出せ。俺は儲けるだけだ」というのでは、産業界は国民の支持を得られない。ビジネスマンが専門職として社会の尊敬を受けるには、その社会的責任について深く洞察し、行動に移すことだ。結局、収益は日本が繁栄し、倫理的に正しい社会ができないと上がらないと考えられる。
是非、この際、日本人の一人として産業人、ビジネスマンもまた、「健全な日本、善良な国民」に帰って欲しい。
中部大学武田邦彦
「takeda_20120307no.448-(6:50).mp3」をダウンロード
(平成24年3月5日)
知の侮辱(12) 足し算のできない東大教授
知の侮辱(12) 足し算のできない東大教授
「知の侮辱」シリーズとしても「程度の低い知の侮辱」です。まあ、小学校を卒業していればわかるものですが、「瓦礫に反対する奴は非科学的」と言う人がいて、同じレベルなので、一応、書いておきたいと思います。
原発の事故直後、ある東大教授がNHKで「胃のレントゲン1回が600マイクロシーベルトですから、福島市の10マイクロシーベルトは60分の1で問題ない」と発言。多くの人が何しろ{東大―NHK}の組み合わせだから、すっかり信用して大きく被曝しました。
私はこのことを「かけ算のできない東大教授」と書きました。福島市の10マイクロシーベルトというのは1時間あたりですから、福島市に60時間いれば{10×60}で600マイクロシーベルトになるので、もし正しく言うなら、「3日間、福島にいたら胃のレントゲンを超える被曝になり、1ヶ月いたら10回以上の被曝になる」ということでした。
原発事故から2週間ぐらい経った時、今度は茨城産の「こうなご」から1キログラムあたり4000ベクレルを超える汚染が見つかりました。今度は民放にでていた東大教授が「コウナゴは少ししか食べないから安全だ」と発言しました。
今度は「足し算のできない東大教授」の例で、お二人ともあまりに恥ずかしいことと、一般の国民に自分の専門の領域で被曝させたのですから、すでに東大を去っているのではないかと思います。
この「足し算ができない東大教授」はその後、「食品安全委員会」に感染し、次に「瓦礫を引き受けたい市長」へと拡散しています。いったい、何の「足し算」ができないのでしょうか?
・・・・・・・・・足し算・・・・・・・・・
●外部被曝+内部被曝=被曝限度1年1ミリ
●福島原発事故で直接的に飛んできたセシウムなどによる被曝+3月4月の放射性ヨウ素による被曝+福島からトラックのタイヤで運び込まれることによる被曝+3月4月に衣服についた放射性物質からの長期被曝+家具などに付着したものからの長期被曝+福島から移動する食材の中に入っている放射性物質が生ゴミとして捨てられ焼却場からでることによる被曝+福島からくる人、車、衣服などに付着してくることによる被曝+旅行などで一次的に新幹線などで福島を通過するときに被曝する分+・・・・=外部被曝
●飲料水からの被曝+日常用水からの被曝+道路から巻き上がる二次飛散から呼吸で入る被曝+樹木の葉から飛び散ったり落ち葉からの放射性物質が空気中に舞う被曝+お米、肉、サカナ、野菜、穀類、お菓子、乳製品、調味料・・・などの食材からの被曝+・・・・=内部被曝
●内部被曝の内、今までまだ良く研究されていない放射性物質の体に対する影響についての安全係数
「瓦礫の引き受け」について、これらすべてを足し算してから「市民は大丈夫」としている自治体はありません。いずれも「足し算」をしない場合に限定されていて、「引き受けたいから安全」という論理です。
また全体としては瓦礫量が2300万トン、汚染制限が1キログラム8000ベクレルだから、「国が定めた」全体の上限は2300×10の7乗×8000ベクレル=約2×10の14乗となり、それを日本人の人口1.2×10の8乗で割ると、一人あたり100万ベクレルを超えます。
この一人あたり100万ベクレル、もし日本全体の10分の1の自治体が引き受けたら引き受けた地域の住民は一人あたり1000万ベクレルの被曝を受けます。それもストロンチウム、プルトニウムなどの他の核種の被曝を無視した場合です。
・・・・・・・・・
私は「足し算もしないで大丈夫という人」、特に計算できない人は仕方が無いとして、専門家は足し算をしなければならないことはよく知っています。つまり、被曝も今から50年ほど前なら「被曝させる方の論理」、つまり「牛肉が1キロ1000ベクレルだが、これだけ食べても大丈夫」ということでしたが、最近は「被曝する方の論理」、一つ一つの被曝は大丈夫だが、日常生活で被曝する総量はどうか?ということに変わりました。
これは、食品安全でも環境保全でもすべてそうで、それが数10年も昔に戻ったような話は聞きたくありません。そして自らは数10年前の論理で話していて、「瓦礫の移動は危険」という人に「非科学的」というレッテルを貼るのです。
もっともあまり理由を言わずにレッテルを貼るのは、これも人格攻撃と同じで、ウソを言っていて支えられないから、テレビで集中的に放送したり、相手を人格攻撃したり、レッテルを貼ったりするのだから、相手の心理状態も判ろうというものです。
瓦礫引き受けの前提:被曝する市民側に経った計算値を公表すること、国全体で汚染の拡散をどのように防ぐかについての基本方針を明確にすること、福島を助けるためにみんなで被曝しようなどという魔女狩り時代の論理を使わないことなどがまずはたいせつです。
中部大学武田邦彦
(平成24年3月8日)
「takeda_20120308no.450-(8:21).mp3」をダウンロード
「知の侮辱」シリーズとしても「程度の低い知の侮辱」です。まあ、小学校を卒業していればわかるものですが、「瓦礫に反対する奴は非科学的」と言う人がいて、同じレベルなので、一応、書いておきたいと思います。
原発の事故直後、ある東大教授がNHKで「胃のレントゲン1回が600マイクロシーベルトですから、福島市の10マイクロシーベルトは60分の1で問題ない」と発言。多くの人が何しろ{東大―NHK}の組み合わせだから、すっかり信用して大きく被曝しました。
私はこのことを「かけ算のできない東大教授」と書きました。福島市の10マイクロシーベルトというのは1時間あたりですから、福島市に60時間いれば{10×60}で600マイクロシーベルトになるので、もし正しく言うなら、「3日間、福島にいたら胃のレントゲンを超える被曝になり、1ヶ月いたら10回以上の被曝になる」ということでした。
原発事故から2週間ぐらい経った時、今度は茨城産の「こうなご」から1キログラムあたり4000ベクレルを超える汚染が見つかりました。今度は民放にでていた東大教授が「コウナゴは少ししか食べないから安全だ」と発言しました。
今度は「足し算のできない東大教授」の例で、お二人ともあまりに恥ずかしいことと、一般の国民に自分の専門の領域で被曝させたのですから、すでに東大を去っているのではないかと思います。
この「足し算ができない東大教授」はその後、「食品安全委員会」に感染し、次に「瓦礫を引き受けたい市長」へと拡散しています。いったい、何の「足し算」ができないのでしょうか?
・・・・・・・・・足し算・・・・・・・・・
●外部被曝+内部被曝=被曝限度1年1ミリ
●福島原発事故で直接的に飛んできたセシウムなどによる被曝+3月4月の放射性ヨウ素による被曝+福島からトラックのタイヤで運び込まれることによる被曝+3月4月に衣服についた放射性物質からの長期被曝+家具などに付着したものからの長期被曝+福島から移動する食材の中に入っている放射性物質が生ゴミとして捨てられ焼却場からでることによる被曝+福島からくる人、車、衣服などに付着してくることによる被曝+旅行などで一次的に新幹線などで福島を通過するときに被曝する分+・・・・=外部被曝
●飲料水からの被曝+日常用水からの被曝+道路から巻き上がる二次飛散から呼吸で入る被曝+樹木の葉から飛び散ったり落ち葉からの放射性物質が空気中に舞う被曝+お米、肉、サカナ、野菜、穀類、お菓子、乳製品、調味料・・・などの食材からの被曝+・・・・=内部被曝
●内部被曝の内、今までまだ良く研究されていない放射性物質の体に対する影響についての安全係数
「瓦礫の引き受け」について、これらすべてを足し算してから「市民は大丈夫」としている自治体はありません。いずれも「足し算」をしない場合に限定されていて、「引き受けたいから安全」という論理です。
また全体としては瓦礫量が2300万トン、汚染制限が1キログラム8000ベクレルだから、「国が定めた」全体の上限は2300×10の7乗×8000ベクレル=約2×10の14乗となり、それを日本人の人口1.2×10の8乗で割ると、一人あたり100万ベクレルを超えます。
この一人あたり100万ベクレル、もし日本全体の10分の1の自治体が引き受けたら引き受けた地域の住民は一人あたり1000万ベクレルの被曝を受けます。それもストロンチウム、プルトニウムなどの他の核種の被曝を無視した場合です。
・・・・・・・・・
私は「足し算もしないで大丈夫という人」、特に計算できない人は仕方が無いとして、専門家は足し算をしなければならないことはよく知っています。つまり、被曝も今から50年ほど前なら「被曝させる方の論理」、つまり「牛肉が1キロ1000ベクレルだが、これだけ食べても大丈夫」ということでしたが、最近は「被曝する方の論理」、一つ一つの被曝は大丈夫だが、日常生活で被曝する総量はどうか?ということに変わりました。
これは、食品安全でも環境保全でもすべてそうで、それが数10年も昔に戻ったような話は聞きたくありません。そして自らは数10年前の論理で話していて、「瓦礫の移動は危険」という人に「非科学的」というレッテルを貼るのです。
もっともあまり理由を言わずにレッテルを貼るのは、これも人格攻撃と同じで、ウソを言っていて支えられないから、テレビで集中的に放送したり、相手を人格攻撃したり、レッテルを貼ったりするのだから、相手の心理状態も判ろうというものです。
瓦礫引き受けの前提:被曝する市民側に経った計算値を公表すること、国全体で汚染の拡散をどのように防ぐかについての基本方針を明確にすること、福島を助けるためにみんなで被曝しようなどという魔女狩り時代の論理を使わないことなどがまずはたいせつです。
中部大学武田邦彦
(平成24年3月8日)
「takeda_20120308no.450-(8:21).mp3」をダウンロード