あなたの保険大丈夫ですか?将来の年金支給額知ってますか?直ぐに計算出来ますよ -126ページ目

保険料の目安は手取り収入の1%

 「適正な保険料は、だいたい手取り収入の7%です。たとえば手取り月収が30万円の家庭なら、2万1000円が適正な保険料」。最近、ある雑誌の記事で目に留まった記述です。保険会社の人ではなく、フリーランスのファイナンシャルプランナーの発言です。

 こども保険や個人年金のような、貯蓄目的の保険は除いた場合、という注釈がついているので、純粋にリスク管理のための出費について、手取りの7%ということです。

 保険料負担の目安については、お客様はもちろん、マスコミの人からもたびたび尋ねられます。従来、私は「ゼロに近いほどいいでしょう」と回答してきましたが、最近、マスコミの方には「失礼ながら、意味がある質問だとは思えませんが……」とも言ってみることにしています。

 年齢や家族構成等に関わらず、どれくらいお金に余裕があるかで保険の必要性は変わるはずだからです。金銭的な余力は、収入の多寡、ローンの有無、生活習慣などによって変わってきます。職業の違いによる社会保障制度や勤務先の福利厚生制度とも関係します。したがって、一般論として語ることに無理があると感じるのです。

 なにより、具体的なパーセンテージの提示を避けたいのは、一般の方が「それくらいの金額であれば、月々払っていける」という感覚を、持たない方がいいと考えるからです。

 実際、手取り収入30万円の人が、毎月2万円強の出費に耐えられないことはないかもしれません。しかし、年間25万円ほどの負担です。20年間続くと500万円を超える金額になることを忘れてはいけません。

 あえて、手取り収入に占める保険料の割合にこだわるとしたら、私は1%を目標にするといいと思っています。年収400万円の家庭であれば、年間4万円です。こうした発言をすると、同業者から「ウケを狙って極端に低い数字を提示するのはいかがなものか」といった指摘も受けたりしますが、それなりの根拠もあります。

 もともと私は、保険活用を「子供が自立するまでの一定期間、世帯主の万が一に備えるくらいに限定していい」と考えているので、35歳男性が、向こう20年間2000万円の保障を確保する場合で試算します。

 煙草を吸わない健康な方には最優遇割引料率を適用する保険会社で加入すると、保険料は年間4万2千円弱で、収入に対して1.04%になります。公的遺族年金以外に年収の5年分が確保されるのです。遺族が保険金だけで余生を過ごそうと考えなければ、それなりに納得できる額ではないでしょうか。

 この場合、20年間の保険料総額は84万円弱なので、先の7%の場合と比べると400万円を優に超えるお金が自由に使える計算です。

 一般に、進学資金準備に利用される「学資保険」の満期金が、200万円程度で設定されることが多いことを思い浮かべると、あくまで机上の計算とはいえ、400万円の価値がわかりやすくならないでしょうか。

 もちろん、加入者が最優遇割引料率を利用できるようなケースばかりではないでしょう。それでも、リスク管理のための保険との関わり方によって、数百万円単位で自由に使える資金が変わるイメージは、持っていただけるかと思います。

 保険料の支払いは「何かあった時」に備えるためのものですが、「何事もなく過ごす日々」にもお金はかかります。私自身、最も恐れるのは、本業で「稼ぐ力」が落ちた後にも、人生は相当期間続くかもしれない、ということです。

 そんな日々を乗り切るために好適な保険は、特に思いつきません。有効なのは貯蓄と、現役でいられる期間を延ばすための自己投資だと思います。そのためにも保険料負担は低いほど好ましく、どんな肩書きを持つ人の発言であっても、手取りの数%といった目安にこだわることはないと考えます。

「本音と建て前」のない人たち・・・科学的事実と空気的事実

「本音と建て前」のない人たち・・・科学的事実と空気的事実

日本は「本音と建て前の違う社会」と言われます.四面が海に囲まれ、周りの人との人間関係がもっとも重要ですから、聖徳太子の「和をもって尊しとなす」と言うとおり、本音を言わずに難しい問題を処理する習慣があります。

2011年の福島原発の後、長く日本人を被曝から守ってきた「1年1ミリ」という基準をいとも専門家が簡単に捨て、さらに「法律で決まっている」と言う私に「法律を守るなんて何だ!」と反撃してくる指導的立場の人の心が、私には理解できなかったのです。

昨年まで1年1ミリと言っていた人がなんで急に1年100ミリになるの?と思ったのですが、実は、その人の「本音」も「建前」もなかったのです。建前なら法律で決まっているのですから、「酔っぱらい運転はいけない」というように法律に基づいたことを言うでしょうし、「本音」は本音ですから、1ミリなら1ミリ、100ミリなら100ミリと統一されているでしょう。

このような経験は、リサイクル、温暖化、赤字国債など私が疑問を呈してきたことに対する評論家や専門家との議論で今まで何回か経験したことでした。リサイクルですと、エントロピー増大の原理にあからさまに反することを言う学会の学者に対して「どうしてこんなに普段から教えていることと違うことを言うのだろう?」と不思議に思いましたし、温暖化では「空気を暖めても海は暖まらない」という簡単な伝熱と比熱の問題に触れないで話をする学者に強い違和感を覚えたものです。

しかし、徐々にその疑問も解消していきました。現代の日本社会には、「本音」、「建前」の他に「空気的事実に基づく」という方法があることが判ったのです。つまり「本音」というのがその人の本当の考えとすると、「建前」は社会の規則や表面上の言動で、建前というのは「本音」があって初めて成立するものです。

それに対して「空気的事実」とは「本音がない」ことが前提、つまり自らの意見がなくて、その時その時に応じて周囲の空気を読み、それに応じて事実を創造してそれに基づいて話すことを指しています。

たとえばリサイクルですと、「分別したもののほとんどは燃やしている」、「焼却をリサイクルに入れているのでリサイクル率が高い」ということをすべて知っているのに、「周囲の空気はまだリサイクルがよいということになっている」ということを読み、「リサイクル率は60%もある」などと言います。このとき、科学的事実(焼却を除くとリサイクル率は5%以下)ということを知っていても、空気的事実(リサイクル率は60%)と言うことになりますが、これは建前でもなく、空気的であっても事実ですから本音でもあるのです。

その人と面と向かって1時間も話せば、間違っていることが明らかになることでも、短い時間、テレビのスタジオのようの限定された場所では「何を言っても逃げ切れるから、空気で行こう」ということです。つまり私の相手をしていた人は「本音も建て前も無い人」だったのです。バカらしい!!

被曝限度もそうで、原発の事故直後、みんなが「被曝など大丈夫。法律はない」と言っている時には空気的事実は「法律はない」ということになりますし、1年も経ってどうやら法律は1年1ミリを基準にしていることが判ると、「法律にある」というのが空気的事実になるのです。実は、本人は1年20ミリでも1ミリでも0.1ミリ(ドイツ)でもなんでも良く、その時の空気だけで事実を決めているのです。

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このことに気がつくのが遅かったのは、科学者としての私は「事実」からスタートしますので、他の人も事実に立脚していると思ったのです。またお医者さん、工場の人、営業、農業など「実業」をしている人も事実が最初です。

でも、考えてみると「東京に住んでいる評論家」は「客観的事実」が事実ではなく「みんながそうだと思っていること=空気」が事実なのです。だから、「空気に従う」ということは彼らにとって事実を重んじていることになります。

たとえば、「温暖化すると南極の氷が融ける」というのは「科学的事実」とは反しますが、「空気的事実」には合致しているのです。だから、事実認識が違うことになります。実に奇妙な時代になったものです。

「takeda_20120323no.469-(6:14).mp3」をダウンロード






中部大学武田邦彦
(平成24年3月23日)

タバコ第2弾・・・タバコと被曝(1)

タバコ第2弾・・・タバコと被曝(1)

タバコのことを今、このブログに出すことは私にとって「損」かも知れません。でも、現在の日本の闇は一つ一つのことに自分の信念ではなく「損得」で決めることから来ているように思います。

私は「これを言ったら損だ」などはまったく考えません。自らの学問的な信念に基づき、この時点で明らかにしなければならないものは、どんなに不利が予想されてもやる必要があります。それが学問というものです。

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「危険」というのは、状況によって変わります。一つは「自分の意思で自由に危険を冒すもの」で、もっとも過激なのは「冒険」です。なにしろほとんど成功の可能性がなく、遭難の危険性が高い「***の最高峰で未踏の山」に挑戦することすらあるからです。かつて世界最高峰のエベレストに挑むなどがそうですが、それを成功させたときの賞賛の大きさは、危険と隣り合わせだからこそです。

このような「自分の意思で危険を冒す」ものでもっとも危険なものはハンググライダーだと10年ほど前のイギリスの本で読んだことがあります。

これに対して、自分の意思ではない危険があります。歩行者の交通事故、原発からの被曝などがそれに当たります。また自然災害も広い意味ではこれに当たります。つまり、1)自分が自らの意思で行って自らが危険になる、2)他人の意思で行われているもので自分が危険になる、という2つがあります。

さらに、1)は、a)全くの趣味で行い自分が危険になる・・・(登山、ハンググライダー、タバコ、お酒など))、 b)社会的要請があり、それに応じることによって自分が危険になる(消防士、原発作業員、危険な地域に向かうボランティアなど)、 c)腐っているかも知れない食品を自らの意思で食べておなかを壊すなど、があります。

難しいのは、2)で、A)自分の意思ではないが自分がメリットを受けているもの(自動車事故:たとえば自分は歩行者で自動車を運転しないが、車で配達される宅急便を利用したり、大量に車で輸送されるスーパーの食材を買うなど)、B)代替え手段があるが社会的合意でメリットを優先して危険を甘受しているもの(原発に代表される。電気をもらう代わりに1年1ミリの危険を受ける)、C)本人にメリットも何もないのに被害だけを受けるもの(タバコの副流煙、隣の騒音など) があります。

タバコを吸う人の危険性は、1)のa)、つまり自らの趣味で自ら危険のある行動をして、治療など他人の世話になるものに分類されます。ところがタバコを副流煙で被害を受けるのは、2)のC)、つまり本人になにもメリットが無いのに被害だけを受けるというものです。

この2つの危険性をどの程度に見るかというのは学問的に良く研究されています。私が勉強したものでは、意思100倍、メリット100倍という感じです。つまり、自分の意思で行う行為(タバコを吸う)と他人がやって自分にはメリットもない危険(副流煙)は「危険を感じる感度」に1万倍の差があることを示しています。

タバコを吸う人が「副流煙など騒ぎすぎだ」と感じ、タバコを吸わない人が「臭くて危険でタバコは困る」と反感を感じるのは、「意思とメリット」の関係ですから、両方とも正しいのです。

もし、喫煙する人は「副流煙で苦しんでいる人は自分たちの1万倍の感度だから、気をつけなければ」と思い、副流煙で苦しんでいる人は「喫煙者は悪げはない。自分の好きなものを吸っているのでどうしても感度が鈍い」とお互いに思って気をつければかなり感情的な対立は減るように思います。

被曝もそうで、健康な成人男子で自分の意思で原発に勤務し、それでお金(給料)をもらっている人の被曝限度が1年20ミリシーベルトまでですから、病気がちの子供(その親)で、石炭火力の電気で生活ができるのに、原発が事故を起こして強制的に被曝させられる時には1年1ミリシーベルトでも危険に感じるでしょう。

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タバコの問題にしても、被曝の限度にしても、今、日本で議論されているのを見ると「相手の立場になっていない」ことを感じます。たとえば、1年1ミリは厳しすぎる、オーバーだと言っている人の多くは、「私はビジネスをしているので電気がいる」という経団連などの人もいますが、その人は「原発の電気を使うと電気代が節約できる(怪しいが)」というのですから、原則的にはお子さんの被曝を心配するお母さんに比べると、同じ被曝でも危険性が100分の1に感じられているのです。

この傾向は全体的にもあり、日本の経済発展のためには原発は必要だと考えている人は1年1ミリのことも、瓦礫のことも「そんなのは危険では無い」と感じ、お子さんをお持ちのお母さんは「危険」と思うのは、人間の心の動きとしては当然でもあるのです。

このような問題の解決は「相手の身になって議論する」ということであり、自分が正しいと思うことも、相手の身になって考えれば別段、不思議なことではない場合が多いということです。このように危険と言うものはかなり複雑で、その規制値も専門的な基準になっています。

まして、原発の被曝の危険性が、タバコをすう危険性に比べて小さいなどということを言う専門家もいますが、あまりに浅い議論です。さらに、「寿命が来てガンで死ぬ人に比べれば、被曝でガンになる可能性は・・・」などという比較はさらに難しいことが判ります。自然死に対して、「他人から強制されて死ぬ(殺人か殺人の類似)」の場合は、全く人の感情が違うのです。

我が子を失う場合でもやむを得ない病気の場合と、残忍な殺され方をした場合と、同じ心理状態にいることはできません。指導的立場にある人、専門家、自治体の首長、職員は危険に関する感受性について、もっとよく考えて発言することを望みます。法律の罰則や規制値などは病気になる確率などが基本ですが、それにこの感受性も加味して決められています。



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中部大学武田邦彦
(平成24年3月23日)