先の東北の国道45号の踏査に際して、実に地元の方々にお世話になった。兎に角、通行不能な箇所が多すぎ、そのたびに、地元のかたに、道を教えて頂いた。確かに分かりにくさはあったが、確かに道はあった。彼らの知識がなければ、どうなったか分からない。

このように人になにがしかを教える時は、それが正しくなければならない。あやふやなら教えないほうが親切なのだ。いま、何を言っても許される時代、嘘を言ってはいけませんね。いい加減じゃ人を惑わすだけです。

嘘やデマで人を行動に走らせる、大衆扇動家という、目立ちたがり屋はいつの時代にも、表れます。これらの人種はもっともらしいことを言い、そして行動しない人間を非難し、行動するようにさせます。学生運動しかり、新興宗教活動しかり、j実は革命もそうなんですが。その他にも人に呼び掛け、行動を促す人々は必ずどの時代にもいます。そして、彼らは正義を語り、人をひきまわします。しかし、その結果は何時の時代も人間の悲惨な結果をそこにみることなるなです。


彼らは時に。無邪気に聞きかじった思想を口にします。


しかし、これほど危険なことはありません。哲学や思想なるものはそう簡単に、自分のものになるはずがないからです。だから付け焼刃のような思想などを無邪気に口にする人間は、愚かなのですが、自分のその愚かさに気づいていないのです。だから危険なのです。

一見、利口そうなことを言われても、行動しないことを恥じることは一切ありません。確かなものがなければ行動は危険に結びつくのです。

人間に欠けているのは、実はこの『確かな幸福への知』なのでしょう。

むやみやたらと『行動』する必要は絶対にないのです。これは確かなことです。みなさん、気をつけて!

(^-^)

たまたま見たTVで菅直人の精神分析をしていた。マスコミは何時の時代も阿呆なものだ。マスコミは彼の首相の座にしがみつくことを、これ迄にない強心臓と誉めたたえるものもいるようだ。笑うべき妄言だ。精神分析家などもお粗末で彼らの理論をベースに面白く説明してくれるが、いい加減なものとつくづく感じた。彼がこれ程首相の座にしがみつくのは何故か、と彼を分析するが彼の全体を見ていない。
元々、彼は住民運動、市民運動の活動家として政界に入った。住民運動とは、公共の為道路を拡張しようと、住民に立ち退きを求めても、環境などを盾に絶対立ち退かない、立ち退くにも最後まで抵抗する、という人々の運動が殆んどだった。これが彼の原点なのである。これで公共工事が事実上大変遅れたことは夥しくある。

即ち、菅直人は、このある意味、公共を無視しても、自己のエゴで立ち退かない、という、これまでの彼の行動パターンの上にあるだけだ。

いま大震災、原発で沢山の方々が苦しんでる。数々のものが破壊され、被害にあっているのだ。

だから、いま、この公共の安全の確保、早急に必要とする病院、道路、電気、上下水道。これらの公共の施設の復旧に全力を挙げなければならない。しかし、菅直人は、この公共の問題は放り出し、また関心を寄せず、なにか、実現もはっきりしない、再生可能エネルギーの未来のことばかり言う。今現在、困っている人はたくさんいるのだ。これを我儘なかれは見たくないのかもしれない誰かにやってもらいたいのだろう。かれの頭に公共という概念が希薄で責任感も希薄、そして、未来の夢のような話ばかりする。こんな首相は困るのだ。


戦前の軍部のやれ満蒙開拓だとか、八紘一宇だとか、戦前の軍部の夢うつつのようなものと全く同じだ。


菅直人は戦前のアホな政治家、軍部と、全く同じだと、私はいうのだ。


いま本当に困っている人が、ものすごい数でいるのだ、これを無視してよいのか!この馬鹿菅!!


アホいうな!消えてくれ!!



彼は、これまで通り、かっこはつけるが、公共と言うことを無視する、この彼の自己のエゴを単に通し続けるだけのものしか頭にはないのだ。その頭の中は実にお粗末で悲しいのがわかる。単にワガママをごり押し通す、なんとも子供ぽい性格の奴に過ぎない。それだけなのだ。情けない・・・
彼を強心臓と評すいまのマスコミのオツム悪さにはもう呆れる。


と言っても何時もことだが…



o(^-^)o

この世に『生』をうけ、この世でなにがしかのものを学び、多くは子孫を残し、そして『死』んでゆく。


これは、いつの時代にも共通する、真実だ。だから、私も、もしこれを読む人がいたら、その人も必ずこの運命を受け入れないければならないことになる。


日常、現代は、法律の整備や技術的発展などで、比較的安全な国家形態もあり、比較的安全の中、毎日死の恐怖を身近に味わうことなく、毎日を暮している人が多い。


このような社会になると、現実の自分の『死』を忘れ、逆に実にもっともらしい,この世だけのケチな『いい加減』な発言が実に多くなる。中には、人目を、また人の心をだます、詐欺的発言をするものも出て、わずかな自分の利益のために、身勝手な発言も、また行為も多くなる。目立ちたがり屋も多くなる。そうなると、これまでの、正直な心は失われ、自分の目先の利益ばかりを考え、正直者は馬鹿にされ、むしろいい加減な、表面的な知識、演技的発言、適当に知ったかぶりの人間が、見かけだけの派手な行為、発言。これらが大手を振って社会を闊歩するようになる。社会の良風は大きく失われ、人々は、そんな中『あれか、これか』の世界にさらされることになる。しかし、そして、どんないい加減な人間も、己の死を目の前の真実として現実のものとして現れることとなる。必ず死ぬのである。これはまぎれもない真実である。


どんなにいい加減なことを言い、どんないい加減な行為をしてこの世の利益にあずかろうとも、死は必ず訪れる。



かつての人間は、天変地異も身近に感じ、現代のようなこの世の『気晴らし』の文化、娯楽も少なく、日々自然の厳さ、身近な死も、他人の事ではなく、じかに自分と接することをしていた。だから死の準備も日常のなかに、随所にあった。たとえばまつりにしても、どの国でもそれは神々、仏、と、そして超越的存在に、とこかで繋がっていた。現代は、人間の生存条件、根本条件は、これは遠い過去もこの現在も、いつの時代も全く変わらないのに、自分の『死』を忘れる娯楽、目をそらすことが文化だ、また進歩だと勘違い、そう嘘吹くものも、なんとも多くなる。そして人々は目先のつまらぬ利益ばかりを追求することになる。


己の『死』の現実の前には、『神は死んだ!』などと猿まねをして、何の意味がある。なんの確証もなく身勝手に解釈、発言していたものも、知ったかぶりな、いい加減なほら吹きも、身勝手に国民をだましてきた愚かな首相も。そのこれまでのいい加減さゆえに、『死』の前には,それらはまったく意味をなさない。


身勝手な、本当は自己顕示欲の強いだけのいい加減人間の方々は、時には、己の『死』も真剣に考えたほうが良いのではないか。と、ふと思う。


もう、そこは他人をいい加減にだますこともできず、言い訳もきかない、またこれまでのような他人とワイワイやったところで、善人ぶったところで、他人は安易に決して助けてはくれない、ただ、たった一人で行かなければならない世界なのだから・・


『あれかこれか』、今からちっとは考えるのも、ま、よいのかも??(笑)


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