この世に『生』をうけ、この世でなにがしかのものを学び、多くは子孫を残し、そして『死』んでゆく。
これは、いつの時代にも共通する、真実だ。だから、私も、もしこれを読む人がいたら、その人も必ずこの運命を受け入れないければならないことになる。
日常、現代は、法律の整備や技術的発展などで、比較的安全な国家形態もあり、比較的安全の中、毎日死の恐怖を身近に味わうことなく、毎日を暮している人が多い。
このような社会になると、現実の自分の『死』を忘れ、逆に実にもっともらしい,この世だけのケチな『いい加減』な発言が実に多くなる。中には、人目を、また人の心をだます、詐欺的発言をするものも出て、わずかな自分の利益のために、身勝手な発言も、また行為も多くなる。目立ちたがり屋も多くなる。そうなると、これまでの、正直な心は失われ、自分の目先の利益ばかりを考え、正直者は馬鹿にされ、むしろいい加減な、表面的な知識、演技的発言、適当に知ったかぶりの人間が、見かけだけの派手な行為、発言。これらが大手を振って社会を闊歩するようになる。社会の良風は大きく失われ、人々は、そんな中『あれか、これか』の世界にさらされることになる。しかし、そして、どんないい加減な人間も、己の死を目の前の真実として現実のものとして現れることとなる。必ず死ぬのである。これはまぎれもない真実である。
どんなにいい加減なことを言い、どんないい加減な行為をしてこの世の利益にあずかろうとも、死は必ず訪れる。
かつての人間は、天変地異も身近に感じ、現代のようなこの世の『気晴らし』の文化、娯楽も少なく、日々自然の厳さ、身近な死も、他人の事ではなく、じかに自分と接することをしていた。だから死の準備も日常のなかに、随所にあった。たとえばまつりにしても、どの国でもそれは神々、仏、と、そして超越的存在に、とこかで繋がっていた。現代は、人間の生存条件、根本条件は、これは遠い過去もこの現在も、いつの時代も全く変わらないのに、自分の『死』を忘れる娯楽、目をそらすことが文化だ、また進歩だと勘違い、そう嘘吹くものも、なんとも多くなる。そして人々は目先のつまらぬ利益ばかりを追求することになる。
己の『死』の現実の前には、『神は死んだ!』などと猿まねをして、何の意味がある。なんの確証もなく身勝手に解釈、発言していたものも、知ったかぶりな、いい加減なほら吹きも、身勝手に国民をだましてきた愚かな首相も。そのこれまでのいい加減さゆえに、『死』の前には,それらはまったく意味をなさない。
身勝手な、本当は自己顕示欲の強いだけのいい加減人間の方々は、時には、己の『死』も真剣に考えたほうが良いのではないか。と、ふと思う。
もう、そこは他人をいい加減にだますこともできず、言い訳もきかない、またこれまでのような他人とワイワイやったところで、善人ぶったところで、他人は安易に決して助けてはくれない、ただ、たった一人で行かなければならない世界なのだから・・
『あれかこれか』、今からちっとは考えるのも、ま、よいのかも??(笑)
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