ヘルマン・ヘッセ『デミアン』 | 文学どうでしょう

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デミアン (新潮文庫)/新潮社

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ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『デミアン』(新潮文庫)を読みました。

みなさんは、文庫本の活字が小さいのと大きいのとでは、どちらがお好きですか?

ぼくは昔は小さい方が好きで、活字が小さければ小さいほど、そしてページに活字がぎっしり詰まっていればいるほど、うひゃひゃ! と喜ぶという、よく分からない趣味をしていました。

なので、多分10年くらい前からだと思いますけども、いくつかの出版社が文庫本の活字を大きくし出した時は、「なんだよそれ、むきー!」と腹を立てたのを覚えています。

でもまあぼくは元々流されやすい人間ということもありますし、時代の流れとして活字はどんどん大きくなる傾向にあることもあって、今では「活字が大きい方が目にやさしくていいよねえ」とかなんとか言って、むしろ喜んだりもしているくらいです。

さて、ヘッセを新潮文庫で読んでいた人は、水色の表紙、小さくてぎっしりの活字というイメージが強いだろうと思いますが、そうした時代の流れもあって、近年いくつかの作品が改版されました。

この場合の改版というのは、訳はそのままで、表紙を新たなイラストにし、ゆったりした活字の組み方に変えたものです。

新訳ではないものの、本自体に新しいイメージが生まれるので、手に取りやすくなっていいですよね。

『デミアン』のジャケットの、野田あいのイラストもすごくいいと思います。どこか暗い感じというか、寂しさのようなものが伝わって来て。

さてさて、そんなわけで久し振りにヘッセを読んでみました。

とりあえず改版になったのを読もうと思っただけで、何を読むかはあまり意識していなかったんですが、ちょっと順番を間違えた感じがなきにしもあらずです。

ヘッセは、『車輪の下で』など、今でも熱烈な読者を持つ作家だと思いますが、何故ヘッセが好きかは人によって違います。

車輪の下で (光文社古典新訳文庫)/光文社

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ぼくはヘッセを一時期、随分愛読していたんですが、それは主に前期の頃の作品で、叙情的な雰囲気がなんとも言えずによかったんですよ。

叙情的というのは、説明が難しいですが、感覚的な表現で紡がれているという感じでしょうか。

たとえば、アジサイの花はただそこにあれば単なるアジサイの花ですが、感情を込めて眺めると、単なるアジサイの花を越えた何かが生まれます。

そうして生まれた感覚で書かれた文章は、おそらくとても詩的なものになることでしょう。

また、他人から怒鳴られても平気な顔をしている人もいれば、他人が怒鳴られているだけなのにもかかわらず、怯えてしまう人もいます。

共感しすぎるほど誰かに共感してしまったり、ささいなことで傷ついてしまう心。

ヘッセの小説は、ナイーヴで繊細な感性を持つ主人公の周りの世界を、詩的な感覚で描いた作品が多く、その雰囲気がぼくは好きだったんですね。

ただ、『シッダールタ』など、後期の作品になると、そうした叙情性は少しずつ失われていって、求道的というか、自分自身に何かを問いかけるような物語が多くなっていきます。

ぼくが読む順番を間違えた感じがなきにしもあらずというのは、この『デミアン』がまさにその後期にさしかかる作品だからです。

戦争中に執筆され、第一次世界大戦の直後の1919年に、ヘッセの名を伏せて発表されたこの『デミアン』は、非常に深いテーマを持った小説です。

『デミアン』は『デミアン』で強い印象の残る小説ではありますが、どうせ読み直すなら、前期の叙情的な作品から読めばよかったかなあと、ぼくはふと思ったりしたということです。

さてさて、『デミアン』は最後の最後の所で戦争が少し出て来たりもしますが、基本的に戦争はテーマになっていません。テーマになっているのは、もっと大きなもの。

ストーリーラインは、主人公であるエーミール・シンクレールという少年が、少し変わった考え方をするデミアンという少年と出会い、大きな迷いを抱えるようになるというものです。

デミアンは、学校の先生の言うことと、全く違うことを言うんですね。先生が善と悪とを峻別したその”悪”に新たな解釈を与えるデミアン。

そうすると、善と悪の境界線は失われ、それどころか、一回りして”悪”が善より優位に立つようにすらなります。

この小説は、そうした善と悪についてがテーマとなった小説なんです。

ぼくも含めてですが、日本人の多くは率直に言って、キリスト教的な善悪二元論を、知識としては理解出来ても、感覚的にはよく分からないのではないかと思います。

その分、衝撃的な感じはあまり受けないだろうとは思うんですが、それでも色々と深く考えさせられる部分はあるはずです。

どこか悪魔的な雰囲気を持つ少年デミアンと出会ったことによって、シンクレールの人生は、どんな風に変わっていってしまうのでしょうか?

作品のあらすじ


〈私〉は10歳の時、ラテン語学校に通っていました。立派な父や母のようになることを夢見ています。

しかしある時〈私〉は、13歳くらいのフランツ・クローマーにいじめられるようになってしまいました。

フランツは、その辺りを仕切っているガキ大将なんですが、〈私〉はフランツに気に入られるために、リンゴを盗んだことがあると、つい嘘の武勇伝を口にしてしまったんですね。

するとフランツは、果樹園の主から泥棒を見つけたら2マークもらう約束があるといい、口止め料を〈私〉に要求します。

まだお小遣いさえもらっていない〈私〉は全くお金がありませんから、困ってしまいます。しかし、フランツにお金を払わなければ、泥棒として告発されてしまうのです。

〈私〉が取れる方法は一つしかありません。それは、家にあるお金を盗むこと。

父や母を理想像として抱き、まっとうな道を歩んでいきたいと思っていた〈私〉でしたが、フランツに脅されてお金を盗む度に、心が打ち砕かれる思いがし、絶望に打ちひしがれます。

ある時、学校にマックス・デミアンという〈私〉より少し年上の生徒が新しくやって来ました。父親を亡くし、母親と暮らしているデミアンは、袖に喪章をつけています。

先生が聖書について教えてくれた時、〈私〉とデミアンは一緒に授業を受けていました。先生がしてくれたのは、カインとアベルの話です。

折角なので、カインとアベルについて少し説明しておきましょう。

アダムとイヴはみなさんご存知ですよね。神によって一番最初に創造された人間でしたね。

禁じられた実を食べて楽園を追放された後、アダムとイヴの間に産まれた兄弟がカインとアベルです。

カインとアベルはそれぞれ神に捧げものをするのですが、いつもアベルの捧げものだけが認められます。

当然カインはそれを面白く思わないわけで、アベルのことを殺害してしまいます。

カインは神によって追放されることになりましたが、復讐を恐れたカインの願いを聞き入れ、誰も手出しが出来ないよう、神によって額にしるしがつけられました。

ちなみに、このカインとアベルの話をベースにしたアメリカ文学の名作が、ジョン・スタインベックの『エデンの東』です。全4巻とやや長いですが、こちらも非常に面白い小説です。

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話を戻しまして。学校の先生は、当然ながらカインを罪人だと教えるわけですよね。ところが、帰り道で一緒になったデミアンは〈私〉に、それとは全く違う解釈を吹き込みました。

カインのしるしは元々彼にあったもので、それが周りを怖れさせたからこそ、あの話が生まれたのだと。アベルを殺したのは、「強いものが弱いものを打ち殺した」(46ページ)に過ぎないと言うんですね。

つまり、カインは悪人ではなく、一種の選ばれし者だという解釈です。それを聞いて〈私〉はびっくりします。

彼がいなくなってしまうやいなや、彼が言ったことはすべて、まったく信じられないように思われた。カインが気高い人間で、アベルが臆病者だなんて! カインのしるしが表彰だなんて! それは不合理で、神をけがすものであり、だいそれたことだった。そうだとすれば、神はどこにいるのか。(47ページ)


さて、〈私〉を悩ませ続けるフランツの要求はエスカレートし、姉さんを連れて来いと言われるようになりました。

しかしある時、デミアンに相談したのをきっかけに、フランツは〈私〉の前に現れなくなります。それどころか、〈私〉の姿を見つけると逃げて行くのです。

デミアンが〈私〉のために何をしてくれたかは分かりません。ただ「きみと話すのと同じように、彼と話をして、きみのじゃまをしないほうが彼自身の身のためだってことをわからせてやっただけさ」(67ページ)と言うだけでした。

やがて〈私〉は「聖・・・市」にある少年塾に入ることになり、デミアンと離ればなれになってしまいます。

デミアンの影響を受け、何でもただ受け入れるのではなく、自分でとことんまで考えようとする〈私〉の少年塾での素行は悪く、何度も辞めさせられそうになりました。

その頃、〈私〉の心を占めるようになったのは、公園で見かけたある少女。名前も知らないその少女に〈私〉はダンテの作品からベアトリーチェと名付けました。

ベアトリーチェが心にいるお陰で、飲酒や遊びから遠ざかることが出来、読書や散歩をするようになります。

〈私〉は夢で見た鳥の絵を描き、デミアンに送りました。すると不思議な方法で返事が返ってきます。休み時間の後、自分の席に戻ると、本の中に一枚の紙きれが入っていたのです。

そこにはこう書かれていました。

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」(136ページ)


鳥のことは他に誰も知りませんから、デミアンの返事だと分かったのです。しかし、アプラクサスという名前は聞いたことがなかったので、よく分かりません。

やがて授業でたまたまアプラクサスについて学ぶ時が来ました。神的なものと悪魔的なものを結合するのがアプラクサスなんです。

かつてデミアンはこう言っていました。

そのときデミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。――さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。(139ページ)


やがて〈私〉とデミアンと再会する日がやって来て・・・。

人生について考え続けた〈私〉が最後にたどり着いた答えとは一体!?

とまあそんなお話です。この小説は〈私〉の精神的修行の物語であり、同時にデミアンという不思議な人物の物語でもあるわけですが、デミアンが一体どんな人物なのかについては、色んな読み方が可能だろうと思います。

とにかく当たり前のことを当たり前のように考えないことだけは確かで、変わり者であり、また同時に〈私〉を精神的な地獄から救ってくれたヒーローでもあります。

善と悪は本来決して混じり合わないものなんですが、デミアンの考え方は少し違いますよね。神であり、悪魔であるような神を崇めなければならないというわけです。

そんなデミアンの考え方を受けて、〈私〉がどんな風な考えを持つようになるのか、そんな所に注目しながら読んでみてください。

明日は、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』を紹介する予定です。