吉本ばなな『白河夜船』 | 文学どうでしょう

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白河夜船 (新潮文庫)/新潮社

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吉本ばなな『白河夜船』(新潮文庫)を読みました。

「白河夜船(しらかわよふね)」という言葉は、日常ではあまり使わない言葉だろうと思います。

むしろぼくなんかは、昔この短編集を読んだ時に、初めて聞いた言葉だったような気がします。

「白河夜船」を広辞苑(第六版)で引くと、2つの意味が載っています。「実際には見ないのに、見たふりをすること」と「熟睡して前後を知らないこと」です。

元々は、京都に言ったと嘘をついた人の逸話に由来する言葉だそうです。

地名である「白川」について聞かれた時、その人は川の名前だと思ってしまったんですね。そこで、夜中に船で通ったから見えなかったと答えてしまったんです。

それで実際には京都に行っていないとばれてしまいました。要するに「知ったかぶりをする」という語だったのが、後々には眠りについての語に変化したようですね。

みなさんも早速、学校の授業や、会社の会議中に熟睡している人を見かけたら、後から「白河夜船だったね」と声をかけてみてください。多分「え、何?」と聞き返されると思いますけども。

さてさて、「白河夜舟」という語の持つイメージはとてもよくて、「夜船」のゆらゆらした感じが、まさにうつらうつらという感じと重なります。

そうした”深い眠り”のイメージを持ちつつも、字面は堅くてがっしりとした印象ですから、余計に何だか面白い言葉のような気がします。とても素敵なタイトルですね。

『白河夜船』には、”深い眠り”をテーマにした短編が3つ収録されています。

それは眠っているという意味での”眠り”でもありますが、同時に永遠の眠りである”死”の世界に限りなく近いものでもあります。

”深い眠り”の中では、死んだはずの人と出会うことも出来ます。それは単なる夢のようでもあり、スピリチュアルな(精神世界での)邂逅のようでもあり・・・。

少し悲しくて、切なくて、ちょっぴり幸せな、そんな短編集です。

作品のあらすじ


『白河夜船』には、「白河夜船」「夜と夜の旅人」「ある体験」の3編が収録されています。

「白河夜船」

こんな書き出しで始まります。

 いつから私はひとりでいる時、こんなに眠るようになったのだろう。
 潮が満ちるように眠りは訪れる。もう、どうしようもない。その眠りは果てしなく深く、電話のベルも、外をゆく車の音も、私の耳には響かない。なにもつらくはないし、淋しいわけでもない、そこにはただすとんとした眠りの世界があるだけだ。(9ページ)


どんなに深く眠っていたとしても、〈私〉は恋人からの電話だけは何故か気が付くことができるんですね。

眠そうな声で電話に出るので、彼はいつも少し笑って「また寝てたんでしょう」(10ページ)と言います。

アルバイト先の上司として彼と出会ってから、一年半ほどが経ちました。

〈私〉は就職した会社が忙しすぎて、彼と会えなくなってしまったので、仕事を辞めてしまいました。それ以来、半年近く、よく眠りながらのんびりと過ごしているんですね。

〈私〉は自分でもよく分からないのですが、何故か彼に言えないことがあります。それは、二ヶ月前に、友達のしおりが死んでしまったこと。

大学生の時に〈私〉は、しおりと一緒に暮らしていました。「白いほほ、淡い瞳、まるでマシュマロのような笑顔」(22ページ)のしおり。

しおりは、お客と「添い寝」をするという、売春のようで売春でないような秘密の仕事をしていました。そしてある時、睡眠薬をたくさん飲んで死んでしまったんです。理由は分かりません。

〈私〉は彼といるととても幸せなんですが、それは同時に悲しみを持つ関係でもあります。

彼には奥さんがいるから。そして、ただ奥さんがいるだけではなくて、そこにはより複雑な状況があったりもします。

絶望的なまでの淋しさ、そして悲しみを抱え込みながら〈私〉は眠り続け、やがてしおりの夢を見て・・・。

「夜と夜の旅人」

片付けをしている途中で、引き出しの奥から、古い手紙の下書きを見つけました。〈私〉が英語で書いた手紙です。

それは兄が高校時代に付き合っていた、サラという留学生に宛てたものでした。〈私〉はしばらくその手紙を眺めます。

留学を終えてサラはボストンに帰ったのですが、兄はそれを追いかけて行って、一年ほど向こうで暮らしていました。

しかしある時、国際電話がかかって来て、「私は兄の国際電話の口調から、兄とサラがだめになったことを知った。理由はわからなかったが、直感したのだ」(102ページ)と思った通り、兄はサラと別れて日本へ帰って来ました。

〈私〉は兄に頼まれて、いとこの毬絵と一緒に成田空港に迎えに行きます。再会した兄と毬絵の様子から、2人が恋に落ち始めていることを知りました。

兄と毬絵は、毬絵の両親の激しい反対にもめげずに愛を育んでいたのですが、突然兄は交通事故で亡くなってしまいます。

その死は、すべての人の心に悲しみを与えました。兄が死んでからしばらく毬絵は〈私〉の家で暮らすことになったのですが、夜中になると、毬絵はいつも泣いています。

夜中にかすかに闇をぬってくるしくしく泣きは、梅雨時の長雨のように心にしみ込んでくる。私も当時は、かなり滅入った気持ちになったものだった。それは、この世の果てにいるような空しい気分だった。(108ページ)


兄の死から一年ほどが経った現在。毬絵は「ねえ・・・・・・サラ、今、日本に来てない?」(117ページ)と〈私〉に尋ねます。無言の電話があったんですが、それがサラではないかと思ったというんですね。

〈私〉の所へも無言の電話がかかって来ました。〈私〉はサラの名前を呼びかけて・・・。

「ある体験」

最近〈私〉はお酒を飲む量が増えて困っています。

もう飲むのは止めようと思うのですが、「ビール一杯を皮切りにしてすぐに加速がついてくる。もう少し飲むと気持ち良く眠れるなあ、と思ってジン・トニックをもう一杯作ってしまう」(153~154ページ)ような毎日です。

酔っ払って、眠りにつこうとする時、いつも歌が聞こえて来ます。そのメロディに耳を澄まそうとすると、深い眠りに入っていってしまうのです。

その歌について、〈私〉は恋人である水男に話しました。

「そりゃ、あぶないわ。アル中だ。」
「えっ。」
 眉をひそめて私が驚くと、水男は笑って言った。
「うそだよ。実は俺、そういう話聞いたことあんの。よく似た話。それは、誰かが君になにかを言いたくなっているんだって、いうよ。」
「誰かって、誰よう。」
「誰か、死んだ人だよ。そういう人いない? 知り合いで。」
 しばらく考えてみたが、とりあえずはいなかった。私は首を振った。(160~161ページ)


水男はふと「なあ、もしかして春じゃないか?」(161ページ)と尋ね、それを聞いて〈私〉もはっとします。

〈私〉は大学生の時、奇妙な三角関係になったことがありました。水男の友達のある男を、自分より3歳年上のフリーターの女性と取り合ったんですね。その女性が春です。

一人の男性を取り合ったわけですから、当時はとても険悪な関係でした。何かを伝えに現れそうもないんですが、〈私〉はなんだか腑に落ちる感じがしたのです。

やがて、春は本当に死んでいたことが分かりました。

〈私〉は水男の知り合いで、死んだ人に会わせてくれるというコビトの田中くんに会いに行って・・・。

とまあ、そんな3編が収録されています。どの話も、とても静かで印象に残る話ばかりです。

それぞれによさがあるんですが、中でも「ある体験」における、〈私〉と春の関係性というのは、極めて面白いと思いました。

2人の女性に詰め寄られて、男が逃げ出してしまうと、同じ男を愛してはいるものの、基本的にお互い全く関係のない2人の女性が部屋に取り残されるわけです。

お互いに相手さえいなくなれば自分が幸せになれると思って、相手を憎んでいるわけですから、そこでの異様な空気、奇妙な関係性というのは、非常に興味深いものがあります。

はたして、〈私〉の所へ毎晩やって来ていたのは、本当に亡くなった春だったのでしょうか? そうだとしたら何のために? そんな所にぜひ注目してみてください。

”深い眠り”をテーマにした短編集です。うつらうつらした眠りの雰囲気がとてもよく出ている短編集なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

あと、「添い寝」をする秘密のクラブは、おそらく川端康成の『眠れる美女』が元になっていると思うので、そちらもあわせて読んでみるといいかもしれません。

おすすめの関連作品


夢をテーマにした映画で、傑作があります。スペインの映画で、アレハンドロ・アメナバル監督の『オープン・ユア・アイズ』です。

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ハンサムでお金持ちの男が、女をとっかえひっかえして人生を謳歌しているんですね。

ところが、ある女の恨みを買ったせいで、交通事故にあってしまい、その美しい容姿を失ってしまいました。次第に、目の前に起こる出来事が、夢か現実か分からなくなっていき・・・。

スリリングかつエンターテイメントに富んでいて、非常に面白い映画です。おすすめですよ。

ちなみに、ハリウッドでトム・クルーズ主演でリメイクされています。『バニラ・スカイ』です。

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『バニラ・スカイ』も面白いですが、『オープン・ユア・アイズ』と『バニラ・スカイ』はそれぞれよさがあるので、出来ればどちらも観てほしいです。

映画としてかかっている予算が違うのは言うまでもないことですから、『オープン・ユア・アイズ』は『バニラ・スカイ』に比べて、かなり色んな工夫が凝らされているんですね。

思わず唸らされる感じがありました。ペネロペ・クルスは両方に出ていますが、『オープン・ユア・アイズ』のペネロペ・クルスは相当いいですよ。

映画の方も、機会があればぜひぜひ。

明日は、エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』を紹介する予定です。