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高橋源一郎『恋する原発』(講談社)を読みました。
アドルノというドイツの哲学者・社会学者に、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という言葉があります。
ぼくもまだ読んだことはないのですが、出典は『プリズメン 文化批判と社会』(ちくま学芸文庫)だそうなので、興味のある方はぜひ読んでみてください。
ぼくはこの言葉を、『必読書150』というブックガイドの、パウル・ツェランという詩人のページで知りました。ちなみにそのページを執筆したのは、現代思想界で有名な浅田彰です。
戦争や災害など、日常生活ではない、異常な状況の中で、言葉はどんな力を持ちうるのか? 苦しんでいる人々に対して、詩や小説など文学は、一体何が出来るのか? これは非常に大きな問題だと思います。
ご飯を食べなければ死んでしまいますが、小説を読まなくたって死ぬことはありません。
それは音楽や絵画も同じで、ある意味においては芸術というものは、心の豊かさを育むことにはなっても、本質的にはなくても困らない、嗜好品に過ぎないわけです。
日本文学史の中で言うと、大きな災害として関東大震災がありました。その当時の文学者の反応や態度は様々ですが、ぼくは菊池寛の文章がとても印象に残っています。
正確な引用はできないのですが、基本的な内容としては、生活すらままならないような非常事態において、芸術はとことん無力だという趣旨の文章だったと思います。興味のある方は調べてみてください。
2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。
地震によって福島の原発事故が起こってしまい、東日本大震災は、多くの死者を出した未曾有の災害というだけではなく、原発を今後どうしていくのかという、今だに解決できない大きな問題を抱え込むこととなります。
東日本大震災の後で、文学は何を語れるのか? これは小説家にとって不可避の、非常に大きなテーマだろうと思います。
『恋する原発』の作者である高橋源一郎の作品には、震災を挟んで発表された短編を集めた『さよならクリストファー・ロビン』という短編集があります。
さよならクリストファー・ロビン/新潮社
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様々な形で”世界の終わり”が描かれた素晴らしい短編集なので、機会があればぜひ読んでみてください。
ぼくがちょうどこの短編集を読んでいる時に、『恋する原発』が紹介されたブログ記事を読んで、これはぜひ読んでみなければと思いました。
東日本大震災が起こり、誰もがみな沈痛な面持ちで言葉を失ってしまっている中で、大震災のチャリティーのためにAVを作ろうとする物語を書くという、そのトリッキーさ。
物語の発想としていいか悪いかはともかく、震災後に何かを語ろうとするとことは純粋にすごいことですし、こうした小説が書かれたことは、非常に意義のあることだとも思います。
ただ、率直に言って、物語として読もうとすると、全然面白くないです。実は、『恋する原発』は、物語的な作品ではなく、その意味においては、「チャリティーのためにAVを作ろうとする物語」ですらないんです。
ぼくはどんな退屈な本でも、つまらないからという理由だけで読むのをやめてしまうことはないんですが、読んだけどつまらなかった本を、ブログで取り上げなかったことは何回かあります。
わざわざなにがどうつまらなかったと分析するのも億劫ですし、声を大にして面白くなかったと叫ぶくらいなら、沈黙していた方がいいと思っていることもあって。
『恋する原発』は正直、取り上げるかどうか、ギリギリまで迷いました。物語的な面白さがないだけに、おすすめしづらい本なんです。
また、あらすじを紹介することに意味のある本でもないですし、性的な言葉の羅列や、政治的な意味であまりにも危なすぎる個人名がたくさん出ているので、ちょっと引用もできない感じなんですよ。
たとえば、キム・ジョンイルそっくりの男が、AKBのイタノトモミそっくりの女子高生をさらって来ていたり、各国の首脳たちにそっくりな人々が、ダッチワイフと戯れていたりします。
個人的な感覚からすると、これはもう完全にシャレにならないゾーンにいってしまっている、そんな感じがしたのはたしかです。
作品について
『さよならクリストファー・ロビン』には、既存のキャラクターである、鉄腕アトムやくまのプーさんが登場していました。
しかし、この短編集の素晴らしいところは、物語に登場する「アトム」や「プーさん」が、「アトム」や「プーさん」である必然性がないことなんです。
既存のキャラクター性によりかかった二次創作ではなく、オリジナリティあふれる新たな物語にしてしまった所にその魅力があるわけで、「アトム」や「プーさん」ではなくても成立する物語なんですね。
一方、『恋する原発』に登場する固有名詞は、入れ替え可能なものではなく、その人物の持つイメージがなくては成立しません。
たとえば、「バラク・オバマ現アメリカ大統領瓜二つの男の横の椅子には、髪を肩まで垂らした日本人っぽい高級ダッチワイフが腰かけている」(245ページ)という文がありますが、これは「バラク・オバマ現アメリカ大統領」というイメージがなければ成立しませんよね。
この文の向こう側に語られている「物語」というものはなくて、ここでは極めて強いメッセージ性だけがあるわけです。
つまり、『恋する原発』は、基本的には起承転結のある「物語」ではなく、本来タブーとされている、語ってはいけないこと/語られなかったことを語ろうとした小説であり、その語ろうとする行為にこそ、意味のある小説なんです。
そうした高橋源一郎のスタンスがより表れているのが、小説の途中に突如挿入される「震災文学論」です。そこではこんな風に書かれています。
戦争について書くとき、直接明示しないにせよ、わたしたちは、「あらゆる戦争は憎むべきものであり、二度と、このようなことを起こしてはならない」とまず書く。その上で、「戦争」に関する、自分の考えを記す。
生命について論じるとき、同じように、直接明示しないにせよ、わたしたちは、「人間の生命は絶対に奪ってはならないものだ」とまず書く。その上で、「生命」について論じるのである。
だが、実際のところ、この「正義の論法」は建前にすぎない。あるいは、単なる「文法」にすぎない。あるいは、あまりに抽象的すぎる。
人びとが、ほんとうに、「戦争」を唾棄すべきものと考え、あるいは、「生命」を、絶対に奪ってはならないものと考えているなら、「戦争」は起こらず、殺し合いは起こらないだろう。わたしは「正義の論法」を疑っている。(202ページ)
つまり、戦争に対して我々が語りえることというのは、実際には一つしかないというわけです。「戦争はよくないものだ」と。それ以外の言葉で語ることは許されていません。
「戦争は素晴らしいものだ」と肯定的にとらえる態度は勿論のこと、何故戦争が起こってしまったのかの分析や、相手国の立場になって考えることすら許されない感じがあります。
「戦争はよくないものだ」という意見は、揺るがない正しさが感じられますが、同時にその一言ですべての意見を封殺してしまっている感じもありますよね。
それは言わば沈黙を要求することに限りなく近く、実質的に我々は、戦争について自由に語ることができません。
東日本大震災についても同じことが言えて、我々は悲痛な面持ちで、ただうつむくことしかできないんですね。未曽有の震災を前にして、我々は言わば言葉を失ってしまったのです。
そんな中で、『恋する原発』は、性的、政治的にタブーとされる事柄を散りばめ、語れなかったことを語ることによって、何かを語ろうとした小説であることは間違いありません。
「震災文学論」はさらに、川上弘美の『神様2011』を取り上げ、それについて語っていきます。『神様2011』は、実際にある本です。
神様 2011/講談社
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三つ隣の305号室に引っ越して来たくまに誘われて、〈わたし〉が川へ散歩に出かけるという短編「神様」は、川上弘美のデビュー作。
ほのぼのとした空気の中に、どこか神秘的な雰囲気も感じられる「神様」を、震災後に川上弘美は、「神様2011」というタイトルで改稿したんですね。
「神様2011」は、内容的には元の「神様」と同じですが、「あのこと」が起こった後の世界として描かれています。子供の姿はなく、防護服を着た人々が歩く世界。
一番印象的な違いは、「神様」ではくまがつかまえた魚の干物を作り、おみやげとしてくれるのですが、「神様2011」では、くまがこう言うこと。
「何回か引っくり返せば、帰る頃にはちょうどいい干物になっています。その、食べないにしても、記念に形だけでもと思って」
(川上弘美『神様2011』講談社、32ページ)
「その、食べないにしても、記念に形だけでもと思って」というセリフが、元の「神様」のセリフに追加されているんです。
ささいな追加ではありますが、核に汚染された世界の悲しさを最もよく表しているセリフだと思います。
『神様2011』は、作者あとがきも入れて、全部で40ページほどの作品なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。「神様」と「神様2011」が収録されています。
話を『恋する原発』の中の「震災文学論」に戻しますね。
「震災文学論」の中では、「神様」と「神様2011」を改稿前、改稿後というそれぞれパラレル(両方ばらばらに存在する)な作品としてではなく、重ね合わさった「神様(2011)」として読み解いています。
2つの短編を重ね合わせると、当然、子供たちと防護服の人々は同時に現れるわけですね。
しかし、「二つの異なった世界は共存できない。どちらかが現実で、どちらかが夢や幻」(210ページ)なわけですから、幻影である子供たちは死者か、あるいは核によって死ぬことになる未来の死者なわけです。
「神様(2011)」では、「まだ生まれていない子供たちが「追悼」されている」(212ページ)小説なのだと結論付けられています。
「あのこと」の起こってしまった後の世界に書き直された「神様(2011)」、震災後に作られ、8時間あるので誰も観たものはいないミヤザキハヤオの『風の谷のナウシカ』完全版、イシムレミチコ『苦海浄土』など、虚実を織り交ぜた引用で書かれた「震災文学論」。
『恋する原発』について語られるのは、主にこの「震災文学論」についてであることが、この小説の「物語」の面白くなさを表しているような気もするんですが、一応「物語」の方もちょっとだけ紹介しておきましょう。
AV制作会社で働く〈おれ〉は、会長と社長に命じられて「大震災チャリティーAV」を作ることになりました。
地球を侵略しに来た宇宙人であり、その不思議な能力で何でもできるジョージをADにして、〈おれ〉は過去のAVを思い出しながら、「大震災チャリティーAV」の構想を練っていきます。
雨が降っていた。もしかしたら、この雨にも、放射能が含まれているのだろうか。待てよ、放射能じゃなくて、放射性物質っていうのか? ・・・・・・なんで、そんなことを心配しなきゃならんのだろう。間違ったことをいったらいけないって? なんで? ぜんぜんわからない。
おれは、ただAVを作っているだけだ。そっとしておいてほしい。静かに『爆乳人妻の勝手に誘惑・ノーブラ生活』第8弾を撮らせてほしい。『100%彼女目線でアナタとHな同棲生活』は自信作だから、シリーズになったら嬉しい。いま企画している『タオル一枚男湯入ってみませんか?』は、売れる予感がする。ところで、どうして『舞ワイフ・セレブ倶楽部』は売れなかったんだろう・・・・・・。(180ページ)
「おれは、ただAVを作っているだけだ。そっとしておいてほしい」という言葉は、作ろうとしているのはAVなので、少し変な感じはしますが、他の仕事に変換可能な言葉でもあります。
小説家なら、「おれは、ただ小説を書いているだけだ。そっとしておいてほしい」ですし、サッカー選手なら、「おれは、ただサッカーをしているだけだ。そっとしておいてほしい」です。料理人なら、「おれは、ただ料理をしているだけだ。そっとしておいてほしい」になるわけです。
そうした変換をより普遍的なものにするなら、「おれは、ただ今まで通り生きて行きたいだけだ。そっとしておいてほしい」になります。
核について何かを語ろうとすると、それはすごく敏感な話題になり、見えない圧力によって、語るに語れなくなってしまうんですね。
ただ、今まで通りの生活がしたいだけなのに、非常に窮屈な感じがあります。この小説は、そうした息苦しい状況を打破するために書かれた小説なんですね。
〈おれ〉は「ともこ」という名前のダッチワイフをとても大切にしています。我慢できずにキスをしたことはありますが、まだ行為に及んだことはありません。
アパートに帰った〈おれ〉は「ともこ」に話しかけ、ぐらぐら揺れ続ける中で、「ともこ」を抱きしめて・・・。
とまあそんなお話です。日本の文学史をパロディとして描いた『日本文学盛衰史』もそうですし、AVの撮影現場をテーマにした小説を高橋源一郎は結構たくさん書いています。
日本文学盛衰史 (講談社文庫)/講談社
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しかし、『恋する原発』は笑うに笑えない、面白がるに面白がれない部分がやはりあって、「物語」としては面白くないですし、積極的におすすめはしません。
ただ、誰も語らなかったことを語ろうとしたことには非常に意義があります。
そして何よりも、東日本大震災の後で、作家は何を書くことができるのか? という疑問に対しての一つの答えになっているとは思います。
明日は、吉本ばなな『白河夜船』を紹介する予定です。