川端康成『眠れる美女』 | 文学どうでしょう

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眠れる美女 (新潮文庫)/川端 康成

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川端康成『眠れる美女』(新潮文庫)を読みました。

川端康成の作品の中で、ではなく、日本文学の作品の中で、でもなく、ぼくが今までに読んできた小説の中で、最も印象に残っている作品と言っても過言ではないのが、この本に収録されている短編「片腕」です。

「片腕」はすごく面白いですよ。発想の秀逸さが光る短編です。シュールさとメルヘンチックっぽいというか、どこか甘ったるい感じの雰囲気が共存していて、とにかくぶったまげる短編なんです。

みなさんもきっと度肝を抜かれるはずです。驚く準備はいいですか? 「片腕」はこんな書き出しで始まります。

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。
「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。(135ページ)


どうでしょうか。ちょっとびっくりですよね。シュールですが、こんな書き出しで始まる小説、読んでみたくないですか? 興味を持った方はぼくのあらすじ紹介も見ずに、ぜひ読んでみてください。

「右腕を肩からはずすと」の時点でもうよく分からないですよね。義手とかではなくて、本当に普通の腕をはずしているんです。物理的にどうはずしているのかと不思議ですよね。

でもいったん腕がはずせるという設定を飲み込んでしまうと、そこに単なるシュールさだけではないものが生まれます。もっと感覚的で、もっと甘ったるいようななにかが。

〈私〉と女の片腕の関係というのは、もちろん特殊な設定ではありますが、〈自分〉と〈他人〉という関係性で考えると、普通の男女関係と共通する部分が多いんです。

〈私〉は自分の片腕をはずして、女の片腕をはめようとします。本来は別々の2つのものが一緒になるということ。これは男女の性的関係に非常に近いものがあります。では、あらすじの紹介を簡単に。

作品のあらすじ


「片腕」

ある女性から、片腕を一晩借してもらえることになった〈私〉。「動くようにしておきますわ」(136ページ)と言って、その娘は肘や指のふしぶしに唇をあてます。〈私〉が娘の片腕は喋れるかどうか尋ねると、娘は話を聞くぐらいのことはできるかもしれないと答えます。

〈私〉は純潔の娘にしかない、「腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある」(137ページ)ところが好きで、それを知った娘が貸してくれることになったんですね。

〈私〉は娘の片腕を自宅の部屋に持って帰ります。娘の片腕は喋れないはずで、初めは「と娘の腕は言ったようだった」(143ページ)と書かれますが、徐々に普通に対話がなされていきます。実際に喋っているのか、「言ったようだった」のかは分かりません。

〈私〉は娘の片腕と添い寝をします。自分の鼓動と娘の片腕の脈拍の音が聞こえます。

 私は明りをつけた。娘の腕を胸からはなすと、私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて、真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやわらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がわのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それらにゆらめく光りとかげの移りをながめつづけていた。(160ページ)


美しいものを美しいと表現するのでさえ、かなり難しいことですが、美しいかどうかすら分からないような、「腕」にひそんだ美しさを、こんな風に陰翳を浮かび上がらせながら描写しているのは、すごいことだと思います。

〈私〉はうっとりしながら、知らず知らずの内に自分の右腕と娘の片腕をつけかえて・・・。

とまあそんなお話です。この後どうなるのか気になる方は、ぜひ本編を読んでみてください。

〈私〉と娘の関係が詳しく描かれていないのがまたいいんですよ。娘がどういう女性なのかはよく分からないんですが、それだけにこの短編全体が抽象的な雰囲気を持って、より一層面白さを増しているような気がします。

続いては、表題作の「眠れる美女」について。

実はこちらもかなりセンセーショナルな作品というか、極めて特徴のある問題作です。どういう話かというと、ある秘密の宿の話です。会員制のようなもので、お客はみな老人男性です。

宿の部屋に入ると、若い娘が裸で眠っています。薬かなにかで眠らされているんですね。老人男性は、その娘と一緒に眠ります。この宿の会員になるにはある条件があって、男性ではなくなった老人男性だけが入れます。

つまり、女性と性的関係を持てるようなぎらぎらした老人はダメなんです。もうそういう機能が低下した老人が、なんらかの癒しのようなものを求めてここへやって来るんですね。

この作品の文章の美しさとか、設定の巧みさとか、そういう部分に感じ入っていながらも、ぼくがこの作品をあまり好きになれないのは、老人男性のどこか奇妙な心理に、あまり共感できないからだろうと思います。

男性機能が衰えていて、裸の娘となにもしないで眠るということは、一体どんな感じなんでしょう。ちょっとその感じがつかみづらい部分はあります。年齢を重ねて読むと、また変わってくるかもしれませんけれど。では簡単にあらすじを。

「眠れる美女」

67歳の江口老人は、宿の女に案内されて、部屋に入っていきます。女は左利きなのか左手で隣室の扉の鍵を開け、中を覗きます。その様子の描写が、川端康成の文章の特徴がとてもよく出ている部分なので、引用しておきます。

女はこうして隣室をのぞくのにもなれているのにちがいなくて、なんでもないうしろ姿なのだが、江口にはあやしいものに見えた。帯の太鼓の模様にあやしい鳥が大きかった。なに鳥かわからない。これほど装飾化した鳥になぜ写実風な目と脚とをつけたのだろう。もちろん気味悪い鳥ではなく、模様として不出来というだけだが、この場の女のうしろ姿に、気味の悪さを絞るとすると、この鳥である。帯の地色は白に近い薄黄だった。隣室はほの暗いようだ。(11ページ)


女が右手ではなく、左手で鍵を開けるということを書くのも実は非常に細かいものですが、それに続く場面はさらに印象的です。この場の女の動作としては、隣室の中をのぞいているだけです。ところがそこに、どこか不気味な印象が重なりますよね。

それがどこから来ているかというと、女の着物の帯からなんですが、帯と女のイメージを重ね合わせて、どことなくいやな感じが感覚的によく表されていると思います。そしてなにより素晴らしいのは、帯の色から、「隣室はほの暗いようだ」へのイメージのジャンプです。

帯の色と部屋の暗さというのは、本来、イメージとしては全く違うものです。断絶しているものを無理やり結びつかせることによって、光から闇へ、近距離から遠距離へと視点が急激に変化しています。しかもそれがとても効果的ですよね。

こうしたある種の感覚を含んだもの、そして独特のパースペクティブ(遠近法)を持った文体が、川端康成の大きな特徴です。

江口老人が部屋に入っていくと、裸の娘が眠っています。声をかけても起きる気配はありません。江口老人は娘から乳の匂いを感じます。どこか甘ったるいような匂いです。

この短編には、香水など匂いにまつわる描写がかなり印象的に使われているので、ぜひ注目してみてください。嗅覚的という点で、日本の古典を思わせる作品でもあります。

この宿には、「安心出来るお客さま」である老人しか入れないんですが、実は江口老人はまだ「安心出来るお客さま」ではないんです。ここは、ちょっと特筆すべき点だと思います。つまり他の老人たちと違って、まだ多少ぎらぎらしたものが残っていて、娘を汚そうと思えば汚せるんです。

物語の空間としては、江口老人と裸で眠っている娘が部屋の中にいるだけです。ですが、同時に描かれているのは、江口老人の女性遍歴です。基本的には、江口老人が性的な関係を持った女性の回想が描かれていくんですが、それはやがて母親と娘の話にまで広がります。

やがて江口老人も睡眠薬を飲んで眠ります。朝になると裸の娘はまだ眠っていて、娘が目を覚ます前に帰らなければなりません。

しばらくして、江口老人はまたその宿を訪れます。するとまた違った娘が眠っています。裸の娘と一緒に眠りながら、過去を回想するというのが、何度かくり返されるわけです。ある時、宿で少し変わったことが起こって・・・。

とまあそんなお話です。裸の娘がこんこんと眠っている空間というのを想像してみてください。かなり特殊な、あやしげな空間ですよね。江口老人は裸の娘の色んな所を触ったり、匂いを嗅いだりします。

ちょっと考えてみると面白いと思うのは、「安心出来るお客さま」と江口老人とでは、それぞれこの秘密の宿の役割が違うかもしれないということです。

江口老人は男性機能が衰えていないという点で、言わばややイレギュラーなお客なわけで、「安心出来るお客さま」と同じ喜びを感じてはいないだろうと思います。

「安心出来るお客さま」は、一体なにを求めてこの宿に来るんでしょう。そして、江口老人は裸の娘からなにを感じたでしょうか。そんなことを考えながら読んでみてください。

ちょっと倒錯的で、あやしく、それでいて古典的な風格も漂う、そんな作品です。

『眠れる美女』には「眠れる美女」「片腕」「散りぬるを」の全部で3編が収録されています。「散りぬるを」にも少し触れて終わります。

「散りぬるを」

「散りぬるを」はこんな書き出しで始まります。

 滝子と蔦子とが蚊帳一つのなかに寝床を並べながら、二人とも、自分達の殺されるのも知らずに眠っていた。少くともはっきりとは目を覚まさなんだ。ーーということは、無期懲役を宣告された加害者山辺三郎も一昨年獄死し、もう事件から五年も経た今となれば、私を一種の阿呆らしい虚無感に落すよりも、むしろ一種の肉体的な誘惑を感じさせるのである。(173ページ)


まとめると、5年前にある事件が起こったんです。山辺三郎という男が、滝子と蔦子という女性を殺害したんですね。そして犯人である山辺三郎は刑務所で死んでいるんです。

〈私〉は当時の裁判の記録などから、山辺三郎がなぜ、どんな風に滝子と蔦子を殺害したのかを考えていこうとしています。

人物の関係性は少しずつ分かっていきますが、滝子と蔦子は小説家である〈私〉の弟子にあたるらしいんですね。そして滝子と蔦子は山辺三郎とは知り合いだったんです。

山辺三郎は罪を認めていますが、なぜ、どんな風に殺したかは、ちっとも要領をえないんです。「警察で、お前のやったのは、こうだったろう、ああだったろうと、教えこまれております上に、予審や検事局の調べで、またおんなじことをなんべんもしゃべらせられて、今はそういうもので頭が出来てしまっていますから」(184ページ)と山辺三郎は言うんですね。

はたして事件の真相とは・・・!?

とまあそんなお話です。事件の真相とは・・・!? と盛り上げてはみたものの、真相が明らかになってどうこうという話ではなく、被害者の心理、そして加害者の心理を丁寧に分析し、推測を積み重ねていくことによってなにかが生まれるような、そんな小説です。

どうでしょうか。やや倒錯的というか、一風変わった作品集だと思います。発想としてはユニークですし、文章も読みやすいので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてくださいね。おすすめの1冊です。