山田詠美『ぼくは勉強ができない』 | 文学どうでしょう

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ぼくは勉強ができない (新潮文庫)/新潮社

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山田詠美『ぼくは勉強ができない』(新潮文庫)を読みました。

世の中には2種類の人間がいます。それは、モテる人とモテない人です。

これは何も恋愛だけの話ではありません。恋愛経験が豊富な人がいる一方で、とことん恋愛に縁のない人もいるように、就職活動でも、何社も内定をもらう人がいる一方で、内定ゼロの人もいます。

モテる人とモテない人と、そこには一体どんな差があるのでしょうか。まあ基本的には、人間的に魅力があるかどうかでしょう。

モテる人はどんなにかっこ悪いことをしても、なんだかんだで結局モテますし、モテない人はどんなにかわいこぶっても、或いはかっこつけても正直モテません。

そこには越えられない壁があるんですが、何とかその壁を越えようと思うならば、他の人にはない突出したものを持つのが一番いいだろうと思います。

それはおしゃれでも、趣味でもなんでもいいです。とにかく自分が輝けるものを見つけること。

恋愛でも就活でも、とにかく大事なのは「興味・関心を持ってもらうこと」なので、注目されるポイントがあるということは、確実にモテることに繋がります。

まあ1000人に少しずつ好かれるよりは、たった1人に深く愛される方がいい感じもあるので、あまりモテるかモテないかは気にしない方がいいとは思いますけれど。

さて、今回紹介する『ぼくは勉強ができない』の主人公は、時田秀美という男子高校生です。

全然勉強しないので、試験の成績は当然よくないんですが、クラスメイトの女の子などには何故かモテるんですね。桃子さんというバーで働く年上の女性と付き合っています。

そんな時田秀美とは対照的な存在が、クラス委員長の脇山です。脇山は試験の成績で常に1位をキープし続けている秀才です。

勉強すればいい大学に行けて、いい大学に行ければいい仕事につけます。そうすれば、裕福な暮らしが出来るわけで、幸せになれるはずなんです。

もちろん周りの大人たちもそれが一番の成功への道だと知っていますから、勉強さえしていれば褒めてくれます。

そんな勉強熱心な脇山が時田秀美こと〈ぼく〉に忠告すると、〈ぼく〉はこんな風に言い返します。

「でも、大学行かないとろくな人間になれないぜ」
「ろくな人間て、おまえみたいな奴のこと?」
「そうまでは言ってないけどさ」
 脇山は、含み笑いをしながら、ぼくを見詰めた。嫌な顔だと思った。
「脇山、おまえはすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない」
「・・・・・・そうか」
「でも、おまえ、女にもてないだろ」
 脇山は、顔を真っ赤にして絶句した。(22ページ)


脇山が絶句したのはもちろん、図星だったからです。「女にもてないだろ」は、まさに急所をぐさりと刺すような言葉で、描いていた幸せの像ががらがらと音を立てて崩れていくような所があります。

『ぼくは勉強ができない』は、この場面が表しているように、当たり前と思われていることを、がんがん打ち壊していくような小説なんです。

凝り固まった考えしか出来ない教師たちや様々な偏見、勉強すれば幸せになれるという下らない既成概念と〈ぼく〉が戦っていく、ある意味では反抗的な物語です。

ただ、この小説が面白いのは、決して不良を描いた小説ではないことです。むしゃくしゃして意味もなく校舎の窓ガラスを割るような物語とはまるで違います。

学校で平然と行われている間違ったことに対して、〈ぼく〉は、自分の言葉で真正面からぶつかっていきます。勉強が出来なくても、自分の頭でしっかり考えるんです。

どこか肩の力は抜けているものの、学校なんか下らないと冷めきった感じではなく、恋愛に対しても達観してるどころか相手に振り回されたりしていて、まだ人間として固まってはいない〈ぼく〉。

そんな〈ぼく〉の成長の小説でもあります。迷いながら、揺れながら、それでも〈ぼく〉は前に向かって進んでいきます。

高校生活を送ったすべての人が一度は感じたであろうフラストレーション(緊張や不安など、鬱屈した感情)が描かれているので、誰もがある種の痛快さを感じられる作品だろうと思います。

作品のあらすじ


3票の差で、クラス委員長が〈ぼく〉ではなく、秀才の脇山に決まりました。

次に票の多かった〈ぼく〉は、書記をすることになったんですが、自分は勉強も出来ないし、字も下手だと言ってクラスで笑いを取ります。

「勉強出来ないのを逆手に取るなよな」(14ページ)と小声で言ってくる脇山を無視して、窓から吹き込む風を感じながら、日曜日に何をしようか考えている〈ぼく〉。

〈ぼく〉は少し複雑な家庭で育っています。祖父と母親と暮らしているんですが、この2人が結構な変わり者なんですね。

まず母親は恋愛体質で、次から次へという感じで、男性と付き合っているんです。そもそも〈ぼく〉は自分の父親が一体誰で、どんな人なのかすら知りません。

祖父はそんな自由奔放な母親を諌めるどころか、散歩中のおばあさんに恋をしていつも振られているような人で、〈ぼく〉の言葉で言えば、「素晴しき淫売とくそじじい」(16ページ)が〈ぼく〉の家族です。

女の子にモテるにもかかわらず、〈ぼく〉が遊んでいないのは、桃子さんという恋人がいるからです。大人の包容力があって、愛のあるセックスを教えてくれる桃子さん。

ところがある時、思いがけぬことが起こります。夜中に急に桃子さんに会いたくなった〈ぼく〉が、桃子さんのアパートに行くと・・・。

 ドアの隙間からは、明らかに人の気配が洩れていた。にもかかわらず、ぼくのノックには返事がなかった。それどころか、急に、沈黙を組み立てたような不自然な静けさが、ぼくの前に立ちはだかったのだった。ぼくは、今度は、もう少し強くドアを叩いた。もちろん、何の応答もなかった。(60ページ)


〈ぼく〉はショックを受けます。中にいる気配があるにもかかわらず、応答がないと言うことは、桃子さんが誰かと一緒だということを意味しているからです。

もう電車もない時刻なので、2駅分歩いて帰ることになりました。〈ぼく〉と桃子さんの関係は一体どうなってしまうのか――?

さて、父親のいない家庭というだけで、〈ぼく〉には偏見の目が向けられてしまうんですね。何かあると、父親のいない家庭だからと言われてしまうんです。それが〈ぼく〉が一番嫌いなことなんです。

ある時〈ぼく〉は、財布に入れていたコンドームを落としてしまい、不純異性交遊をしているから勉強もダメなんだと、学校の先生に説教されることになってしまいました。まったくモテなさそうで、コンドームの準備がいらなそうな先生にです。

女手一つで育ててくれた母親の気持ちを考えろと言われて腹を立て、思わず殴りかかりそうになった〈ぼく〉を、桜井先生がさりげなく止めに入ってくれました。

桜井先生というのは、〈ぼく〉の所属するサッカー部の顧問で、話の分かるとても尊敬できる先生です。部活中もずっと本を読んでいる読書家でもあります。

〈ぼく〉は桜井先生にこんな風に言います。

あの人たちの言う良いこと悪いことの基準て、ちっとも、おもしろくないと思う。良い人間と悪い人間のたった二通りしかないと思いますか? 良いセックスと悪いセックスの二種類だけで、男と女が寝るんですか? 女手ひとつだと、母親は、そんなにも辛酸を舐めなきゃいけないって決まってるんですか? その子供は、必ず歪んだ育ち方をするんですか? 人間って、そんなもんじゃないでしょう。(111ページ)


クラスで起こる様々な出来事の中で、悩み、迷いながらも少しずつ成長していく〈ぼく〉。やがて、卒業後の進路を決めなければならない時がやって来て・・・。

はたして、〈ぼく〉が決めた進路とは!?

とまあそんなお話です。1つ1つの章は短編としても読めるんですが、特に面白かったのが、「賢者の皮むき」という章です。

母親が同じ会社の好きな男に持っていくサラダを作る手伝いをさせられた〈ぼく〉。学校では、友達から好きな女の子への告白を手伝わされることになります。

かわいらしいその女の子は、〈ぼく〉から見ると、かわいらしいように演技をしている女の子なんですね。だから、ぼくにとっては全然魅力的な女の子ではないんです。

〈ぼく〉がその女の子のことを見透かしていると思っていると、手痛いしっぺ返しを食らいます。その時に〈ぼく〉が感じたことが、とても印象的でした。

 ぼくは、何故か、その時、皮剥き器のことを思い出した。あれで野菜を削った時のように、ぼくのおかしな自意識も削り取ることが出来れば良いのに。そうすれば、ぼくの見せかけと中身が一致する日がきっと来る。(154ページ)


太宰治の『人間失格』の一場面がこの章には出て来ていますが、過剰な自意識、そして演技しなければ生きていけないという人物造形の点で、ある程度下敷きにしている感じがあります。

本編は高校時代の〈ぼく〉ですが、併録されている「番外編・眠れる分度器」は、〈ぼく〉の小学生の時の話で、その時の先生など、周りの人々の目線から描かれる物語になっています。

分度器に関連した名ゼリフが出て来るので、ぜひ注目してみてください。

明日は、リリー・フランキー『東京タワー』を紹介する予定です。