太宰治『走れメロス』 | 文学どうでしょう

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走れメロス (新潮文庫)/新潮社

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太宰治『走れメロス』(新潮文庫)を読みました。

太宰治の「走れメロス」は、国語の教科書の定番とも言える作品なので、みなさんご存知だろうと思います。では、あらすじの紹介を簡単に。

妹の結婚式の準備を整えるために都にやって来たメロスは、王が他人を信じられず、次々と殺していっていると知ります。

「呆れた王だ。生かして置けぬ」(166ページ)と激怒したメロスは城に乗り込んでいきますが、あっという間に捕まってしまいました。

短剣を所持していたメロスは処刑されることになりますが、妹の結婚式に出席するために、3日間だけ猶予を願い出ます。自分の身代わりとして親友のセリヌンティウスを残し、故郷へ帰ったメロス。

妹の結婚式を無事に終えて、都へ戻ろうとしたメロスですが、その道の途中には様々な困難が待ち構えていました。心と身体を痛めつけられたメロスですが、親友セリヌンティウスのために走り続けます。

それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。(179ページ)


はたして、メロスは日没までに都にたどり着き、親友の命を救うことはできるのか!?

とまあそんなお話でしたよね。教科書でこの作品を初めて読んだ時のぼくの感想は、「メロス、馬鹿じゃないの」でした。これは、どう考えても全然いい話じゃないんです。

無計画に王の暗殺計画を実行に移したのも愚かですし、無関係の親友を巻き込むのはもう、たちが悪いとしか言いようがないです。

ただ、「走れメロス」の面白さというのは、このメロスの無知、愚かさ、純粋さにこそあります。

暴君ディオニスとメロスと、みなさんは性質としては、どちらに近いでしょうか。さすがに権力を振りかざして人を殺すのはやり過ぎですが、どちらかと言えば、暴君ディオニスの方に近いのではないかと思います。

電車に乗れば、財布をすられないように注意しますし、家には鍵をかけるでしょう。嫌いな人間とも社交的な付き合いをし、仕事だからと理不尽なこと、やりたくないこともやっているはずです。

もしかしたらメロスも都で暮らして、人に裏切られる目にたくさんあえば、注意深い疑心暗鬼な人間になるかも知れません。

経験がないという点で、暴君ディオニスとメロスは大人と子供の対比関係と通じる部分があります。

人を信じることが当たり前の世の中ではなく、人を疑うことが当たり前の世の中だからこそ、メロスのまっすぐな想いというのが胸に響くんですね。

メロスは無知で、愚かですが、その行動は暴君ディオニスだけではなく、いつの間にかついてしまったぼくら読者の心の汚れをも洗い流してくれるような気がします。

もしこれをきっかけに「走れメロス」を読み返すなら、ぜひ文体に注目してみてください。実はこの作品はかなり波のある作品で、客観的な描写から、途中でメロスの主観的な描写へと変わっていくんです。

もう少し分かりやすく言うと、途中からいつの間にかメロスの独白になっているんですね。つまり視点のバランスが崩れている作品なんですが、それを全く意識させない所に太宰治の文章の巧みさがあります。

では、その他の作品も簡単に紹介しましょう。

作品のあらすじ


『走れメロス』には、「走れメロス」の他に「ダス・ゲマイネ」「満願」「富嶽百景」「女生徒」「駆込み訴え」「東京八景」「帰去来」「故郷」の8編が収録されています。

「ダス・ゲマイネ」

「逢うのに少しばかり金のかかるたちの女」(9ページ)つまり色街の女に恋をしている学生の〈私〉は、その女によく似た娘、菊のいる甘酒屋に通うようになり、そこで音楽学校の学生、馬場と知り合います。

〈私〉と馬場は、画家の佐竹六郎と小説家の太宰治を仲間に引き入れ、「Le Pirate(海賊)」という同人誌を作ることにしますが・・・。

「満願」

伊豆で夏を過ごしていた〈私〉は、自転車に乗っていて怪我をしてしまいます。怪我を見てもらった、西郷隆盛に似た医者と親しくなり、〈私〉はほとんど毎朝、新聞を読ませてもらいに行くようになりました。

決まった時刻に薬を取りに来る若い女性がいるんですが、医者は「奥さま、もうすこしのご辛棒ですよ」(51ページ)と声をかけます。やがてその理由が明らかになって・・・。

「富嶽百景」

甲州の御坂峠の頂上に、天下茶屋という小さな茶店があります。井伏鱒二氏がそこで夏を過ごしていると知って、〈私〉はその茶店を訪れました。

そこから見える富士山は、富士三景に数えられるほど、いい景色のはずですが、〈私〉は「まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色」(57ページ)だと失望してしまい・・・。富士山と〈私〉をめぐる話が描かれた短編。

「女生徒」

朝起きてから夜眠りにつくまでの、女学生の心理を独白の形式で描いた短編です。清少納言の『枕草子』を思わせるような、物事に対する鋭敏な感覚で書かれています。

その時、時には、ずいぶんと自分の気持を打ったものもあった様だし、くるしい恥ずかしいこともあった筈なのに、過ぎてしまえば、何もなかったのと全く同じだ。いま、という瞬間は、面白い。いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。(102~103ページ)


女学生の自意識、そして心理の動きを、流れるようなやわらかい文章でとらえた作品です。

「駆込み訴え」

ある人物を訴えに出た〈私〉の独白で紡がれていく短編です。〈私〉は「あの人」を罵倒し、奇跡を否定し、信仰を否定します。しかしその一方で、「あの人」を慕う心も持っています。

〈私〉が「あの人」について語る言葉は矛盾に満ちています。愛していると同時に激しく憎んでいるんですね。「あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる」(145ページ)とまで思いつめた〈私〉は・・・。

「東京八景」

32歳の〈私〉は、伊豆の温泉宿に滞在し、10年間に及ぶ自分の東京生活を振り返る短編を書こうと思います。

大学の仏文科に入学した〈私〉は、バーの女と心中事件を起こし、故郷の家族に失望されてしまいました。〈私〉は23歳の時、20歳のHという芸妓をしていた女と、五反田で一緒に暮らすことになりましたが・・・。

「帰去来」

北さんと中畑さんという2人の恩人について書いた短編です。北さんも中畑さんも〈私〉の父親の時代から付き合いがあった人たちで、実家と絶縁状態のまま東京で暮らす〈私〉をこっそり助けてくれました。

やがて結婚した〈私〉は、北さんのすすめで、10年ぶりに故郷へ顔を出すことになりますが、長兄に玄関払いを食わされるのを恐れる〈私〉はあまり気乗りがせず・・・。

「故郷」

北さんと中畑さんが〈私〉の母が重体だという知らせを持ってやって来ます。〈私〉は北さんのすすめで、妻と1歳半の娘園子も連れて故郷に帰ることになりました。

自分が来るのを待ってくれていたという病床の母に〈私〉は、「がんばって。園子の大きくなるところを見てくれなくちゃ駄目ですよ」(266ページ)と声をかけて・・・。

とまあそんな9編が収録された短編集です。では、感想を少しだけ。

やはり目を引くのは、「女生徒」「駆込み訴え」など、独白のスタイルで書かれた短編でしょう。独白というのは、1人の人間がただ話すというスタイルですから、その人の感覚や考えは濃厚に描き出せる反面、人物の動作を描くのには適していません。

つまり、作品の世界観がどうしても狭くなってしまわざるをえず、小説としての枠が狭まってしまうんですね。特に「駆込み訴え」は、昔読んだ時は面白いともなんとも思いませんでしたが、今回読み直してみて、改めて太宰治のうまさを感じました。

普通、独白と言うのは、真実が語られるものなんです。客観的な事実とは異なっていても、「語り手の思う真実」が語られ、そこにぶれは生じません。

しかし、「駆込み訴え」で特徴的なのは、語り手の態度、そして語られている内容にぶれが生じていることです。愛と憎しみが入り混じり、時に矛盾した内容が語られていきます。

偉そうだったり、はいつくばったり、語り手の態度も変わります。こうした「語られること」のぶれに、単なる独白という形式を越えた面白さを感じました。

「東京八景」「帰去来」「故郷」は太宰治の自伝的な一連の作品として読むことができます。家族の間に生じてしまった不和、特に長兄との絶縁状態がどうなっていくのかが一つの見所となります。

この短編集の中で、ぼくが特に面白く感じたのは、「富嶽百景」です。富士山の景色をどこで見るか、そして何を感じるかが描かれた短編ですが、所々にユーモラスさもありますし、深い印象の残る作品だと思います。

面白い場面を1つ紹介しましょう。みすぼらしい格好をした50歳くらいの男が、杖をつきながら峠を登ってくるんですね。時おり富士山を振り返って見ています。

その男を、名のある聖僧と見る〈私〉と、乞食と見る友人とで口論になりますが・・・。

「いや、いや。脱俗しているところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるじゃないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作ったそうだが、ーー」
 私が言っているうちに友人は、笑い出した。
「おい、見給え。できてないよ」
 能因法師は、茶店のハチという飼犬に吠えられて、周章狼狽であった。その有様は、いやになるほど、みっともなかった。
「だめだねえ。やっぱり」私は、がっかりした。(60~61ページ)


このエピソードは単なる笑い話として読めますが、目の前の人物について想像を膨らませる太宰治のロマンチストの面が出ていて面白いと思います。

遊女の一団を見た〈私〉は、彼女たちの不幸さ、そして世の中の冷たさを思い、苦しくなるんですが、その時に〈私〉がどんな風に富士山を見るのか、そこにぜひ注目してみてください。

明日は、オリジェネス・レッサ『太陽通りのぼくの家』を紹介する予定です。