この本はあしあと帳で、会員2号さんにおすすめしてもらった本です。
みなさんもなにかおすすめの本があれば、ぜひ教えてくださいね。少しずつ読んで、紹介していきたいと思っています。
オリジェネス・レッサは、ブラジルの作家です。著者略歴によれば、プロテスタントの牧師の父を持ち、新聞記者を経て小説家になった、短編小説の名手として有名な作家だそうです。
さて、『太陽通りのぼくの家』は、そんなオリジェネス・レッサ自身の子供時代の思い出がたくさん詰まった自伝的小説なんですが、残念なことに現在では絶版になってしまっています。
この作品が今ではほとんど読まれていない理由を少し考えてみます。そこに、この作品の持つ大きな特徴があるとも思うからです。大きな理由として、以下の2点を指摘することができます。
まず第一に、子供の目から見たブラジルでの生活自体が、現代の子供たちの生活と大きくかけ離れてしまっていること。
兄弟がたくさんいて、家には女中さんがいて、まだ馬車や牛車での移動が当たり前の時代の物語です。カーニバルを祭りと対応させれば、大正から昭和にかけての古きよき日本の風景と似ている部分はあるかも知れません。
ブラジルの人々は、自動車を見ると驚きます。今までに耳にしたことのない音がし、風を巻き起こして通り抜けて行くからです。
遠くにいても自動車が来るのがわかった。まず最初に心臓の調子が狂ってしまうような恐ろしい爆音が聞こえてくる。するとノートを、アイロンを、鍋を、縫物を、レース編みを、やりかけの家事をほっぽり出して人々は窓ぎわへ走る。母親たちははっとし、女中たちは子どもらを家の中へ入れる。
時速二十キロで走る輪の大きい自動車のまき起こす風は歩道をぼんやり歩ている大人を吸いこんでしまうと言われていた。(141ページ)
文化的に興味深いものはあるにせよ、子供からすると物語に入り込みづらい部分はあるかと思います。
現在この作品が読まれなくなっている第二の理由として、そもそもこの小説は児童文学なのかという疑問があげられます。身も蓋もないことを言うようですが。
岩波少年文庫に収録されているので、ターゲットとして児童が想定されているのだろうと思います。しかし、子供が主人公の小説がすべて児童文学かと言えば、それは必ずしもそうではないだろうと思うんですね。
受け手によって、印象が変わってくる部分はあるだろうと思いますが、実は『太陽通りのぼくの家』で多くを占めているのは、主人公である少年パウロの性的好奇心なんです。
もちろん性的好奇心だけではなくて、少年特有の空想のきらめきとか、親子関係なども描かれていきますけれど、性的なことへの好奇心が、一番大きなテーマだろうと思います。
具体的に言ってしまうと、パウロは女中さんのおっぱいが気になって仕方ないわけです。男にはなくて、女にだけあるというおっぱい。お風呂に入れてもらっている時に、何とかして見せてもらおうとします。
パウロの感覚としては、性的に興奮する段階にはまだ至ってはおらず、どちらかと言えばまだ知的好奇心の領域ではあるんですが、しきりにおっぱいを見ようとする少年の話を子供に読ませたいかというと、どうなんでしょうか。
男の子にとっての女の体の謎は、おっぱいだけではないですよね。もう一ヶ所、男女で大きく違う部分があります。
パウロ少年は子供らしい無邪気さを見せながら、そうした秘密に迫っていくわけですが、そこにぼくはなんとなくエロティシズムのようなものを感じてしまうわけですよ。
もしかしたら、ただ見ようとするだけなので、清い心の児童が読むとなにも感じないのかも知れないんですが、大人が読むと、なんだかざわざわした気持ちにさせられるだろうと思います。
馴染みのない、かなり前のブラジルの風景が描かれていること、そして、少年の性的好奇心が物語の重要なテーマになっていること。
以上の2点から、現代の子供にはあまりおすすめではないのですが、かえって大人が読むと、楽しめる小説なのではないかと思います。
文化の違いが印象に残りますし、夢中になって遊ぶ楽しさや、親に感じる罪の意識など、自分の子供時代を思い出させてくれるような小説です。
作品のあらすじ
パウロは自分の6歳の誕生日が来るのを待ち望んでいました。6歳になると、父親から文字の読み書きを教えてもらえるからです。
何歳か年上なだけで、友達のアルベルトは文字も書けるし、「おまえは何も着てない女の人って見たことあるかい?」(34ページ)と何でも知っているので、パウロは憧れと対抗意識を持っているんですね。
パウロは6歳になって、字の読み書きを教えてもらえるようになったので、大喜びです。ところが、大人の言うことと、本当のこととの間には差があると気がつくようになります。
たとえば、弟が産まれたんですが、「空の神さまがくれたのさ。エズメラルジーナさんの籠に入って来たんだよ」(100ページ)という話をパウロは信じていました。エズメラルジーナさんは、お産を手伝ってくれたおばさんです。
ところが、無邪気にそう言うパウロを見て、アルベルトや女中のコンセイサンは何だか思わせぶりのことを言うんですね。「あんたはそんな嘘っぱちを本気にしてるの?」(100ページ)と。
パウロはやがて好奇心から、コンセイサンにおっぱいを見せてくれるように頼むようになります。しばらくは渋っていたコンセイサンですが・・・。
体の弱いパウロの母親の療養のために、父親は半年間の休暇を取り、サン・ルイスを離れ、一家はカジャピオに移ります。
サン・ルイスはカジャピオに比べれば都会ですから、パウロはサン・ルイスは金で地面が舗装されているとか、木くらいの大きさの巨大な知事がいるなど、ほら話をして、地元の子供たちの心をあっという間に掴みます。
カジャピオには、父親の病気のせいで、みんなから避けられているライムンドという少年がいました。
ライムンドの父親の病気は「らい病」で、現在で言うハンセン病ですが、当時はこれといった治療法がなく、伝染力が強いとか遺伝によるものだとか、偏見と差別の目が向けられることの多い病気でした。
親からは近づくなと言われているものの、パウロはライムンドと仲良くなりたいと思うようになります。それは、ライムンドの目に独特の雰囲気があったからです。
パウロは、淋しげなその少年がたまらず好きになった。それまでこの少年のような優しさと孤独のまじった眼を見たことがなかった。灰色で明るくしかも素直な眼だった。あらゆる人の軽蔑を、逃がれることのできない宿命として受けとめていた。(156ページ)
パウロとライムンドの間にはある絆が生まれていくことになります。詳しくはぜひ本編にて。
やがてパウロの一家は、サン・ルイスに戻ります。そして、カーニバルの日が近づいて来ました。パウロと弟のチトは、カーニバルのお面が欲しいと思うんですね。
でも、父親はカーニバルにお金をくれたことがありません。「お兄ちゃん、お父さんがお金持じゃないのってつまんないね」(279ページ)とチトは言います。
ある時、パウロとチトは、父親が机の引き出しにお金をしまっていることを知ってしまいました。その机の引き出しの鍵がどこにあるのかも。パウロとチトは迷いますが、お面が欲しいという誘惑に勝てずに・・・。
はたして、お金を盗んでしまったパウロとチトは、どんな行動をとってしまったのか!?
とまあそんなお話です。おっぱい関連以外で言うと、後半のお金を盗む話がやはり印象に残ります。盗みは盗み以外の何物でもないんですが、パウロもチトもお金の価値というのは認識していません。
お札で物を買うと、お釣りが返って来ますよね。物を買えば買うほど小銭が増えてしまうんです。
お金が物理的にどんどん増えていってしまうことが、お金の価値を知らない子供の目で見ると、恐怖だったりするので、その辺りを面白く感じました。
お金を取ってしまったことは内緒にして、買った品物は持って帰らなければなりません。つまり、パウロとチトは必然的に嘘をつかざるをえなくなります。
罪の意識を抱えるパウロとチトがどんなことを言うのか、そしてパウロとチトの行動が周りの人に見つかってしまうのかどうか、そんな所に注目しながら読んでみてください。
あとはやはり、パウロがいかに女中さんにおっぱいを見せてくれるように頼むかが見所です。「でもぼく子どもだよ。大人じゃないよ・・・・・・」(276ページ)など、様々な角度からアプローチするのがユニークで面白いです。
明日は、アイザック・アシモフ『われはロボット』を紹介する予定です。