山本有三『米百俵』 | 文学どうでしょう

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米百俵 (新潮文庫)/新潮社

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山本有三『米百俵』(新潮文庫)を読みました。

「米百俵の精神」という言葉を、みなさんもどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。

広く一般に知られるようになったきっかけは、やはり当時の小泉純一郎首相が、所信表明演説でこの故事に触れたことにあると思います。メディアなどで結構取り上げられていましたよね。

山本有三の『米百俵』が、元々どのくらい知名度がある作品だったかは分かりませんが、そもそもこの文庫本が出版されたのが、小泉純一郎首相就任直後の平成13年7月ですから、かなり戦略的に狙って発売されたものであることは明らかです。

物語の背景について少し説明しておきたいと思います。物語の舞台となるのは、戊辰戦争後の長岡藩です。戊辰戦争というのは、新政府と旧幕府軍との戦いのことです。

明治維新によって、長く続いた江戸幕府はなくなり、新たに出来た政府によって国が運営されていくこととなりました。ここで問題となるのは、藩として新政府に従うかどうかです。

長岡藩は新政府と争うことになってしまったんですね。その辺りの複雑な事情や、長岡藩の戦いについては、河井継之助を主人公にして司馬遼太郎が『』で描いています。興味のある方はぜひそちらも読んでみてください。

ともかく時代の大きな変動によって、長岡藩は貧しく、ぼろぼろの状態にあるということだけ分かれば大丈夫です。

そんな長岡藩に救いの手が差し伸べられます。窮状を見兼ねた三根山藩から、百俵の米が届くんですね。みんなはこれで人心地つけると喜びます。

しかし、耳を疑うことが起こります。長岡藩の大参事である小林虎三郎は百俵の米を売って、学校を立てると言い出したんです。苦しい生活を送っているみんなは当然激昂しますが・・・。

「米百俵の精神」という言葉は、広い意味では「目の前のことだけではなく、遠くを見据えて耐える時は耐える」というように使われていると思いますが、作品の内容にあわせてより限定して言えば、「いかに人を育てることが大切か」ということです。

小林虎三郎がなぜ学校を立てようとしているかというと、こんな考えを持っているからです。

国がおこるのも、ほろびるのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。だから、人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ず盛り返せるに相違ないのだ。おれは堅く、そう信じておる。そういう信念のもとに、このたび学校を立てることに決心したのだ。(76ページ)


はるか先を見据えて、そのためにはあえて遠回りも厭わないこと。それももちろん立派な教訓ではありますが、こうした人材育成の大切さを訴えたことにこそ、『米百俵』の本当の素晴らしさがあります。

大切なのは、やはり人なんです。これは本当にその通りだと思います。

理想論を口にするのは簡単です。しかし、実行するのは極めて難しいものです。それだけに、今は苦しくても、人を育てようとした小林虎三郎、そして長岡藩全体の決断が胸を打つ作品です。

作品のあらすじ


戯曲という、演劇の台本の形式で書かれた作品です。

長岡藩士の伊東喜平太は、息子の誠太郎が音読しながら勉強をしていると叱りつけます。

喜平太 うるさいな。おい、そんなものはやめろ。
誠太郎 ・・・・・・・・・・・・
喜平太 こんな時勢に、本なんか読んだって、なんになる。
誠太郎 (ほおをふくらす)
喜平太 なんだ。そのつらは。そんなに本が読みたかったら、坊主(ぼうず)になれ。
誠太郎 ・・・・・・・・・・・・(18ページ)


喜平太の所に、藩士の伊賀善内が訪ねて来ます。不作が続き、食べ物にも困っているような現状にもかかわらず、善内は酔っ払っている様子です。

善内の娘が商店にお風呂を借りに行ったんですが、クシを盗んだ疑いをかけられて、裸にさせられて調べられたというんですね。善内が文句を言いに行ったら、主人がお詫びにお酒をくれたというわけです。

なぜこの出来事がそれほどショッキングなのかというと、昔だったら武士の娘にそんなことができたわけがないんですね。明治維新が起こって、身分制度がなくなったから起こったことなんです。

善内の言葉で言えば、「町人のやつら、ご一新になってから、急にのさばりだしやがって・・・・・・」(44ページ)ということになります。時代が大きく変わったことによって、武士の立場は弱くなり、町人の立場が強くなりつつあるんですね。

貧しさ、そして権力を失った武士の惨めな境遇、それぞれ出口のない鬱屈を抱えた2人の所に、森専八郎が驚くべき知らせを持ってやって来ます。

親交のある藩から届いた百俵の米を、大参事の小林虎三郎はみんなに分配するどころか、すべて売ろうとしているというんですね。そのお金で学校を立てようというのです。

善内は激しく怒ります。「死にそこないの、老いぼれ学者め。あいつには家中一統の、この困窮がわからないのか。そ、そんなものを立てくさって、おれたちを干ぼしにしようというのか」(48ページ)と。

学があり、一度決めたことは決して翻さない小林虎三郎の暴挙を防ぐ手は一つしかありません。

善内 専さ。その案をぶちこわすには、道は一つしかないぞ。
喜平太 そうだ。よく言った。道はただ一つしかない。
専八郎 その一つの道というのは。
喜平太 小林大参事をたたっ切ってしまうのだ。(50ページ)


藩士たちは血相を変えて、小林虎三郎の所へ押しかけて行って・・・。

はたして、絶体絶命の小林虎三郎が、憤る藩士たちに語った言葉とは!?

とまあそんなお話です。小林虎三郎と藩士たちとの激しいやり取りは、実際に本編を読んでのお楽しみということで。ちょっとでも下手なことを言ったら斬られてしまう緊迫した場面が続きます。

100ページほどの短い作品なので、興味を持った方は、ぜひ実際に読んでみてくださいね。

米を食うか、それとも売るか。これはもう論理と論理のぶつかり合いです。

お腹を満たすためなら、米は今食べた方が絶対にいいわけですし、そもそも、もらった米を売り払うということは、三根山藩のやさしさを無にするような行為だとも言えます。

未来のために学校を作るという理念自体はもちろん素晴らしいことですが、食糧をなくしてまで、今行うべきことなのかどうか、これは判断としては非常に難しい所ですよね。

たしかに小林虎三郎の考えには、「~だろう」という不確定な要素が多すぎる気はします。

学校を作れば人が育つだろう。人が育てば国がよくなるだろう。それではあまりにも大雑把ですし、絵に描いた餅という感じがないでもないですよね。現実的ではない、夢物語に聞こえます。

ぼくがもし藩士だったなら、やはり同じように理解できなかったはずです。だってみんな飢えてるのに、米売っちゃうんですよ。もう意味不明ですよ。

ただ、米を食べることは貧しい現状を打破する根本的な解決にはならないんですね。米は食べたらなくなってしまうわけです。

学校を作ることは今は苦しくても、根本的な解決に結びつく可能性があります。小林虎三郎はそこまで見通していたんですね。

ぼくはこの物語を読んで、小林虎三郎の人を大切にする考え方をすごいと思いましたし、「今」だけではなく、先を見ることの重要さも感じました。

しかしそれ以上に印象に残ったのは、実は詰めかけて行った藩士たちなんです。

小林虎三郎が藩士たちを見事論破出来たかというと、それは結構グレーな感じがあって、もしも詰めかけて来ているのが町人たちだったなら、納得させられたかどうか怪しいだろうと思います。

藩士たちに語りかけた小林虎三郎もさることながら、納得した藩士たちも実にあっぱれだとぼくは思います。つうと言えばかあというか、そこには単なる論理を超えて繋がりあうものがありました。

その点において、方法論の是非ではなく、武士ならではの覚悟が光る作品でもあります。機会があればぜひ読んでみてください。

ちなみに『米百俵』には、講演や史実の小林虎三郎について書かれた「隠れたる先覚者 小林虎三郎」が併録されていました。

明日は、冲方丁『天地明察』を紹介する予定です。