森鷗外『ヰタ・セクスアリス』 | 文学どうでしょう

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ヰタ・セクスアリス (新潮文庫)/森 鴎外

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森鷗外『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫)を読みました。

タイトルの「ヰタ・セクスアリス」はラテン語の”VITA SEXUALIS”で、注では「性欲的生活」(174ページ)と訳されています。

この小説が掲載された雑誌は発禁処分になったという、そういう問題作です。鷗外自身を思わせる主人公が、自分の性的な体験を告白するという小説で、ポルノグラフィー的な扱いを受けたわけですね。

ここでいう性的な体験というのは、必ずしも性行為だけを意味しているわけではなくて、小さな子供の頃から学生時代、そして吉原(遊女のいる所)など、様々な性にまつわる出来事が書かれていきます。

文豪の書く性的な事柄というのは、どれほどすごいんだろうと期待して読むと、拍子抜けします。現在からすると、全然ポルノグラフィー的ではないです。濃厚さ、そして扇情的な感じは一切ありません。

濡れ場的なものを予想して読むとがっかりしますが、そう聞いてあまりどきどきしないで読むと、これはこれでなかなか面白い小説です。

この作品の最も大きな特徴は、冷静かつ分析的な所です。冷静かつ分析的ということは、感情に振り回されず、性欲を言わば自分の外に置いて観察してみるということです。

これは本来ありえないことで、そこが自然主義文学とは一線を画している所です。性欲のせいで失敗したという話なら分かります。あるいは女で身を持ち崩す話なら分かるんです。

要するに、自分と性欲がしっかり結び付けられていて、しかもどうしようもない性欲に振り回されてしまう話ならすごく納得がいくんですが、そうではないんですね。

性欲に対して、冷静かつ分析的であるということは、自分と性欲とをある意味においては分断させることに成功しているということです。そこにコミカルさというか、面白味が生まれて来ます。

ちょっと分かりづらいたとえかもしれませんが、ある人を棒でぽかっと叩いたとします。痛がるのがまあ普通ですよね。

ところが、ぽかっと叩いても、平然とした顔をしてロボットのように立っていたら、それはそれでなんだかコミカルさが生まれますよね。

『ヰタ・セクスアリス』には、そうした感覚的に苦しまないことによる、コミカルさがあるとぼくは思います。なので、性的な事柄を扱っていながらも、どろどろしていかないんです。

性的な事柄で一つの大きな山場となるのは、本文中の言い方をすれば、「騎士としてdubを受けた」(116ページ)かどうかです。要するに性行為をして童貞を捨てたかどうかなんですが、それ以前以後で性的な事柄への関心は大きく変化します。

妄想による謎めいたものから、既知のものに変化するわけです。初体験をすませることによって、言わば視界はクリアになりますが、同時に幻想性は失われます。

やっぱりぼくも男なので、童貞文学というか、男子特有の妄想爆発のもんもんとした小説は結構共感できます。そういった点では森見登美彦の小説が面白いです。

たとえば『夜は短し歩けよ乙女』辺りはそうした妄想爆発の面白さがあっておすすめです。文体や物語構造はやや読みづらい部分はありますけども。

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)/森見 登美彦

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童貞文学=妄想爆発な話は結構たくさんあって、というか男子学生が主人公の青春ものなんてみんなそんな感じですけど、じゃあ女子側の性的な目覚めを扱ったものはないのかというと、すごいのがあります。

山田詠美の『学問』です。

学問 (新潮文庫)/山田 詠美

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性的なものを扱った小説というのは、売春婦など男性の性のはけ口的として描かれるか、あるいは不倫に溺れる有閑マダムという淫らな感じのどちらかが多いですが、『学問』は女子の性の目覚めが純粋な感じで描かれる小説で、かなり斬新に感じました。

その辺りも興味があったら読んでみてください。では『ヰタ・セクスアリス』に話を戻しまして。

作品のあらすじ


「金井湛君は哲学が職業である」(5ページ)という書き出しで始まります。君づけなのもなんだかユーモラスですよね。大学で哲学史を教えている金井君。

金井君は、自然主義文学(田山花袋『蒲団』など)を読んで、不思議に思います。

 金井君は自然派の小説を読む度に、その作中の人物が、行往坐臥造次顛沛、何に就けても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷澹であるのではないか、特にfrigiditasとでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った。(7ページ)


性欲に振り回されている人物を描いた小説が流行していて、そこに人生が描かれていると言われているのに違和感を覚えたわけです。そこで自分の「性欲的体験の歴史」(13ページ)を振り返ってみることにします。

6歳の時の話。おばさんとどこかの娘が絵を見ています。人物の姿勢が非常に複雑になった絵で、ある部分をこれはなんだと思うと聞かれて、「足じゃろうがの」(16ページ)と答えると笑われます。

7歳の時の話。あるじいさんに「あんたあお父さまとおっ母さまと夜何をするか知っておりんさるかあ」(18ページ)とからかわれて、逃げ出します。

男の子と女の子の違いが気になる〈僕〉は、高いところから飛ぶ遊びを思いつき、女の子にわざと着物をまくらせて飛ばせます。

やがて13歳になった〈僕〉は、東京英語学校に通うようになります。友達は性欲に振り回され、品行が悪いということで退学になっていったりもします。

印象的なのは、友達の家に遊びに行った時のこと。友達の裔一は留守で、裔一の義理の母親がいます。母親は〈僕〉を家に上がらせます。

 僕はしぶしぶ縁側に腰を掛けた。奥さんは不精らしく又少しいざり出て、片膝立てて、僕の側へ、体がひっ附くようにすわった。汗とお白いと髪の油との匂いがする。僕は少し脇へ退いた。奥さんは何故だか笑った。
(中略)
「わたくしはお嫌」
 奥さんは頬っぺたをおっ附けるようにして、横から僕の顔を覗き込む。息が顔に掛かる。その息が妙に熱いような気がする。それと同時に、僕は急に奥さんが女であるというようなことを思って、何となく恐ろしくなった。多分僕は蒼くなったであろう。(63ページ)


〈僕〉は逃げ出してしまいます。16歳になった〈僕〉は大学の文学部に入学します。古賀と児島という友達と三角同盟を組み、相変わらず女を知らない「生息子」(80ページ)のまま愉快に暮らします。

その頃〈僕〉が淡い想いを寄せていたのは、実家に帰る途中で見かける「秋貞」という古道具屋の娘。「障子の口に娘が立っていると、僕は一週間の間何となく満足している。娘がいないと、僕は一週間の間何となく物足らない感じをしている」(81~82ページ)んです。

はたして〈僕〉はいつ、どのようにして童貞を捨てるのか!?

とまあそんなお話です。顔を見るだけの古道具屋の娘のエピソードは、典型的な童貞文学=妄想爆発な感じがしますが、ロマンティシズム漂う点で、『』と似たところもありますね。

性的な事柄にまつわる思い出を断片的に集めた小説であると同時に、学校生活をいきいきと描き出した作品でもあります。友達が性欲的なものに振り回されて、アカデミックな世界から結構脱落していくのも印象的でした。

学問で身を立てるには、煩悩を断たなければダメなのかもしれませんね。

文豪、森鷗外が性欲的な体験というかなり思い切ったテーマで、しかもそれを冷静かつ分析的に淡々と描いた作品です。

テーマ的にはみなさん興味津々だろうと思います。130ページほどの短い作品ですので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、坪内逍遥『当世書生気質』を紹介する予定です。小説の理論書『小説神髄』の記事も一緒にアップできたらします。